をやってみたら残りを出してしまいました。消化不良らしいですから大抵助かるでしょう」
「警察から誰か来ましたか」
「千代町の派出所から巡査が一人来ておりましたが大丈夫助かると云ったら、そのまま帰って行きました」
「成る程。死なない限り用は無いと思ったのでしょう」
 と云ううちに吾輩は、そこいらを探しまわったが、成る程|遺書《かきおき》らしいものはどこにも無い。女の袂《たもと》から額縁の裏まで引っくり返してみたが、出て来たものは袂糞《たもとくそ》とホコリばかりだ。ただ机の曳出《ひきだし》から分厚い強度の近眼鏡と、カルモチンと同じ位のカスカラ錠の瓶を探し出しただけであった。そんな物を探しているうち偶然に、机の前に投出してある女の足袋《たび》を踏付けると、踵《かかと》の処が馬鹿に固いのに気が付いた。
 覗いてみると、背が高く見えるように女が入れるファインゴムだ。
 吾輩はソレを抓《つま》み上げて広矢氏に見せた。
「この足袋は貴方《あなた》が脱がせたんですね」
 広矢氏は海老《えび》のように赤くなって弁解した。
「そうです。足が冷えると見えて、穿いて寝てたんです。こんな場合には、全身の束縛を解くのが、手当の第一ですからね」
 そう云い云いドク・リン氏は新しい白襦袢《しろじゅばん》と、小浜の長襦袢をキチンと着せて、博多織の伊達巻を巻付けはじめた。
「アハハ。これあ自殺じゃありませんぜ」
「エッ。どうして……わかりますか」
 ドクトルが眼を丸くして振返った。
「カスカラ錠は下剤じゃないですか」
「そうです。緩下剤《かんげざい》です」
「ドレぐらい服《の》めば利きますか」
「そうですね。人に依りますが少い時で×粒ぐらい。多い人は×××粒ぐらい用いましょうな」
「カルモチンをソレ位|服《の》めば死にますか」
「死にませんなあ。ちょうどコレ位の睡り加減でしょうなあ。人にもよりますが」
「この女は近眼ですね」
「どうしてわかります」
「ここに眼鏡があります。近眼だもんですからカスカラとカルモチンを間違えて服《の》んだんですね。朝寝の人間には常習便秘が多いんですから……」
「……ハハア……」
 と医者が感心してタメ息を吐《つ》いた。気味わるそうな顔をして吾輩を見上げた。
「まだ、なかなか醒めないでしょうね」
 ドク・リン氏はうなずいた。……というよりも吾輩に圧倒されたように頭を下げた。
「何時間ぐらい睡《ねむ》るでしょうか」
「わかりませんねえ。夕方までぐらい睡るかも知れません」
「助かりますか」
「大抵助かります」
「ハハア……そこんところを一つ、まだ助かるか助からぬか、わからない事にして書きたいですが、含んでおいてくれませんか。そう書かないと新聞記事になりませんから……」
 ドク・リン氏は眼をパチパチさせた。妙な顔をして不承不承にうなずいた。大して事実を偽る訳ではないし、吾輩に痛いところを見られているもんだから余儀なく承知したのだろう。
 押入から布団をモウ一枚出して掛けてやりながら考えた。何とかして女の旦那を探し出す工夫は無いか。下宿の親仁《おやじ》は遊び人だから滅多《めった》に口を割る気遣いが無いし、ドク・リン氏だって知らないにきまっている。身のまわりのものに見当をつける品物も無いし、手紙なんかも在りそうにないし……ハテ。困ったな。相手の旦那を見付けて「彼女自殺の感想談」を一席弁じさせなくちゃ、記事にならないんだが……と頻《しき》りに首をひねっているところへ、下から煙草店に坐っている小娘が上って来た。藤六の娘らしく鼻っ株が大きい。
「あの……お迎えの俥《くるま》が参りましたが」
「誰をお迎えに……」
「此村さんをお迎えと申しまして……」
「どこから来たんだい」
「存じませんが……」
「お父《とっ》つあんはどこへ行ったんだい」
「今ちょっとお電話をかけに……」
「立派な俥かい」
「ハイ。お抱えらしい御紋付の……」
「占《し》めたっ」
 と云うなり吾輩は、階子段を二股に飛び降りて靴を穿いた。表に出るなり俥夫《しゃふ》に云った。
「急いで僕を、お邸まで乗せてってくれ給え。此村さんが自殺してんだから」
 面喰《めんくら》った俥屋が駈け出すと、吾輩は威勢よく仔熊の皮の中に反《そ》り返った。……ヘン。どんなもんだい。これだから新聞記者が止められないんだ……と云いたいくらいだ。おまけにどこへ連れて行かれるんだかテンキリわからないんだからイヨイヨ以て痛快だ。

 石堂橋を渡って電車通を東中洲、西中洲を抜けて春吉《はるよし》へ曲り込んで、渡辺通りから郊外へ出たと思うと、驚ろく勿《なか》れ、九州の炭坑王と呼ばれた、安島子爵家の門内に走り込んだ。
 流石《さすが》の吾輩も……コレハ……と驚いた。何かの間違いじゃないかと思ったが、まさかに俥《くるま》から飛降りて逃出
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