して、とりあえず取って付けたように魘《おび》えた顔をした。この辺には珍らしく眉を剃って鉄漿《おはぐろ》をつけているからトテモ珍妙だ。
「ヘエ。アナタ。向家《むかい》の煙草屋の二階だす。あの二階に下宿して御座った別嬪《べっぴん》さんなあ!」
「ウン。知ってるよ。二十二三の……」
「ヘエ。アナタ。あの人がカルモチンとかで自殺して御座るちうてアナタ……今朝……」
話の終らないうちに吾輩は猿股一つになって立上った。顔も何も洗わないまま洋服に手足を突込んでしまった。スウェターに首を突込んで、靴下を穿いて、帽子を引っ掴むと、梯子段の途中に引っかかっている女将の巨体を飛び越すようにして上《あが》り框《かまち》から半靴を突かけると表の往来……千代町《ちよまち》の電車通りに飛出した。
「まあ。早さなあ。消防のごたる」
と女将が感心している間《ま》に、モウ五六人、人だかりのしている向家の煙草屋に駈込んだ。
いつも煙草を買うので新聞記者という事を知っていたのであろう。野次馬に覗かれないように表の板戸を卸《おろ》しかけていた博奕打《ばくちうち》の藤六という宿屋の親仁《おやじ》がヒョコリと頭を下げて通してくれた。こっちも頭を下げながら出会い頭《がしら》に問うた。
「どうしたんですか」
親仁《おやじ》は妙に笑いながら表の戸をピッタリと閉め切った。上り框に腰をかけて声を潜めた。
二階の女は此村《このむら》ヨリ子という別嬪《べっぴん》で二個月前から下宿している。毎日十時頃に起きて、朝湯に這入って、念入りにお化粧をしてから十二時頃飯を食う。それから午後の三時頃になって綺麗に着飾ってどこかへ出かけて、夜の十一時か十二時頃帰って来て、自分で表の入口の締りをして寝るだけが仕事で、宿主の方ではまことに手数がかからない。下宿料もキチンキチンと入れる。今朝はどこかへ奉公のお眼見得《めみえ》に行くのだから早く起してくれと云って寝たが、十時頃まで起きないから、起しに行ってみると、イクラゆすぶっても眼を開けない。どうも様子が怪訝《おか》しいようだから、近所の医者を呼んで来て診《み》てもらったら、睡り薬を服《の》み過ぎているらしい。自殺かも知れないという話。万一自殺となると身よりタヨリの事はヨリ子から一つも聞いていないし、第一何の商売だか全くわからないから、今も巡査に聞かれて困ったところだと云う。
「ナアンダイ。お爺《とっ》さん。胡麻化《ごまか》しちゃイケないぜ。大抵わかってんだろ」
と一本|啖《く》らわしてやったら親仁が禿頭《はげあたま》を掻いた。
「エヘヘ。済みません。実は新聞に書かれちゃ困りますけに……レコだすけにな」
と小指を出して見せた。
「ヘエ。旦那は誰ですか」
親仁は又頭を掻いた。両手を膝に置いて頭を一つ下げた。
「そ……そいつは御勘弁下さい。……わたくしが、お世話しましたとですけに……」
「アハハ」と今度は吾輩が頭を掻いたが、親仁《おやじ》がちょっと両手を合わせて拝む真似をしたのを見ると可哀相になった。
「失敬失敬。それじゃ本人が死んだらスッカリ事情を話して下さいよ。決してこちらさんに御迷惑になるような事は書きませんから……」
親仁は苦笑して首肯《うなず》いた。その首肯き方で女の旦那というのはヨッポド大物らしいと思った。
二階へ上ってみると六畳ばかりの床の間附の部屋の中央《まんなか》に、花模様のメリンスの布団を敷いて、半裸体の女が大の字に寝かしてある。
その枕元に近所の医者……下宿の女将《おかみ》の報告に係る淋病のドクトルがタッタ一人坐って胃洗滌をやっている。
金盥《かなだらい》の中を覗くとドロドロの飯粒と、糸蒟蒻《いとこんにゃく》が漂っている中に白い錠剤みたようなもののフヤケたのがフワフワと浮いている。
患者は、
「ガワガワ……グルグル……ゴロゴロゴロ……」
と二重|腮《あご》をシャクリながら嘔《は》いているが、そのまま手足を長々と投出しながらスヤスヤと睡《ねむ》っている。
変テコな状態だが、まだ相当麻酔しているのであろう。
流行の庇髪《ひさしがみ》に真物《ほんもの》の真珠入の鼈甲櫛《べっこうぐし》、一重|瞼《まぶた》の下膨《しもぶく》れ。年の頃は二十二三であろうか。
顔から肩から胸元……背中はわからないが手首、足首まで真白に化粧して頬紅、口紅をさしているが、その色っぽい事。正に熟《う》れ切った、女盛りの肉体美だ。
吾輩が上って行くと、ドクトル淋病氏が、ハッとしたらしい。
吾輩が女のオデコの上に名刺を置いて見せたらドク・リン氏が叮嚀に頭を下げて説明してくれた。
好人物らしい微笑を浮かべて、
「私はタッタ今来たんです。広矢《ひろや》と申します。今朝早く、夜中に、かなり多量のカルモチンを嚥下《えんか》したらしいですが、胃洗滌
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