宇《ながらう》で一服しかけた親方は、何気なく吾輩が差出したバットの箱を受取ってチョット押し頂きながら一本引出した。慣れた手附で、火鉢の縁へ縦にタタキ付けて、巻《まき》を柔らかくしながら吸い付けた。
「吸口はまだ這入っているぜ……君……」
「ヘエ。どうも済みません。……わっしゃドウモこの吸口の蝋《ろう》の臭いが嫌いなんで……ヘヘ……有難う存じます。只今お釣銭《つり》を……あ……どうも相済みません。お粗末様で……」
吾輩は、五十銭玉を一個、若い親方の手に握らせて表へ出た。ブラリブラリと歩き出しながら町角を右へ曲ると、急に悪夢から醒めたように火見櫓《ひのみやぐら》の方向へ急いだ。
翌る朝、玄洋日報の第三面に特号四段抜の大記事が出た。
「筥崎の迷宮事件……下駄屋|殺《ごろし》犯人捕わる……隣家《となり》の理髪店主……端緒は現場の吸殻から……」云々と……。
記事は面倒臭いから略するが、犯人の理髪屋の若親方甘川吉之介(三十)と、昨日《きのう》の正午《ひる》過ぎに、偶然に訪ねて来た被害者、仏惣兵衛の後家さんチカ(五二)が、筥崎署へ引っぱられると同時にスッカリ泥を吐いてしまった。
後家のお近婆さんは共犯ではなかったが、しかし犯行の動機は婆さんの不謹慎から生み出されたものに相違なかった。
お近婆さんは評判の通りの堅造《かたぞう》であった。結婚匆々から病身のために亭主と離れ離れになっていたせいであったろう。五十を越しても生娘《きむすめ》のように肌を見せるのを嫌がったので、行く先々の鍼灸《はりきゅう》治療師が困らせられる事が多かった。同じ治療を受けに来ている患者達の間で浮いた話が始まると、すぐに席を外すくらい物堅い女であった。
ところが俗に魔がさしたとでもいうのであろう。伊勢の天鈴堂《てんれいどう》という大流行の灸点師《きゅうてんし》の合宿所の共同風呂で、東京から神経痛を治療しに来ている理髪職人の甘川吉之介とタッタ一度、あやまって一所に入浴して以来、スッカリ吉之介に迷い込んでしまって、治療をソッチ退《の》けにして、名所名所を浮かれ廻わっている中《うち》に、亭主の惣兵衛が生前、長年の間、五十銭銀貨ばかりをコッソリとどこかへ溜め込んでいる事実を、何の気もなく喋舌《しゃべ》ってしまった。
これを聞いた吉之介は、東京で色々な女を引っかけ飽きた揚句《あげく》、親方の女房と情死をし損ねて、新聞に色魔と書かれたので一縮《ひとちぢ》みになって逃げて来た男であった。所謂《いわゆる》、江戸ッ子の喰詰めで、旅先へ出ると木から落ちた猿同然の心理状態に陥っている矢先であった。溺れた者が藁《わら》でも掴む気で、お近婆さんの好意に甘えていたもので、今ではもうウンザリしかけているところへ、この話を聞かされたので、何の事はない五十銭銀貨の山を目当てにフラフラと九州へ来て、フラフラと八幡宮横の惣兵衛の家を探し当てて、フラフラと惣兵衛を呼起して下駄を誂《あつら》えたものであった。だから惣兵衛の横に腰をかけてバットを一服吸い付ける迄の吉之介には、殺意なんか無論、無かった。その五十銭銀貨の山を盗み取る気さえ無かったという。
むろん警察ではソンナ申立ては絶対に信じなかった。無理遣りに計劃的な犯罪として調書を作り上げて検事局へ廻わしたもので、新聞記事もその調書の通りに書いておいたが、それでも後家のお近婆さんだけは大目玉を喰っただけで無罪放免をされた。つまりこの後家さんとこの事件に対する関係は、山羊髯編輯長と、警察の見込との双方ともが適中して、双方とも外れていた訳である。
その以外の事実は全部名探偵……すなわち吾輩の推量通りであった。
元来が荒事《あらごと》に慣れない、無類の臆病者の吉之介は兇行後、現場《げんじょう》の恐ろしさに慄《ふる》え上がって一旦は逃げ出して附近の安宿に泊った。しかし、それから又、五十銭銀貨の事を思い出したので、翌る晩の真夜中から、一生懸命の思いで、人目を忍んで、空屋に這入って懐中電燈の光りで探しまわった結果、やっと三晩目に台所の漬物桶の底から、真黒になった銀貨二千余円を発見するとスッカリ大胆になってしまった。その金を稀塩酸で磨いて、紙の棒に包んだのを資金として、故意《わざ》と直ぐの隣家《となり》に理髪店を開いていたところは立派な悪党であった。こうしていれば誰にも判明《わか》る気遣いは無いと、安心し切っていたものであった。だから後家さんが帰って来てから自分に疑いをかけて、何度も何度も詰問しに来たけれども都合よくあしらって、知らん顔をしていたという。その大胆不敵さには箱崎署も舌を捲いていた。
発覚の端緒は現場に捨てて在った両切の煙草であった。斯様《かよう》な微細な点に着眼して、附近に住む両切煙草の使用者を片端《かたっぱし》から調べ上げた箱崎署の根気と苦
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