家《うち》の中の畳は一枚も敷いて無いし、建具も裏二階の階子段までも外《はず》してあった。台所には水棚も水甕《みずがめ》も無く、漬物桶を置いたらしい杉丸太の上をヒョロ長い蔓草《つるぐさ》が匍《は》いまわっていた。空屋特有の湿っぽい、黴臭《かびくさ》い臭いがプンと鼻を衝いた。
 犯行の現場《げんじょう》は直ぐに判明《わか》った。裏口から這入ると、田舎一流の一間幅ぐらいの土間が表の通りへ抜け通っている。その右側は土壁で、左側に部屋が並んでいる。その中でも表の八畳が下駄を並べた店らしく、ホコリだらけの棚が天井裏からブラ下がっている。その次の六畳の中《なか》の間《ま》が被害者……仏《ほとけ》惣兵衛の仕事場だったらしく、土間の上《あが》り框《がまち》の真上の鴨居《かもい》に引き付けた電燈の白い笠が半分割れたまま残っている。球は無くなっているが、土間の上の屋根裏の天窓から射し込む、青い青い空の光りで見ると、その上り框の前の土間に、血の上に灰を撒《ま》いたらしい一尺四方ばかりの痕跡が一個所残っている。その灰の痕跡は最初、堆《うずたか》かったものであろうが、血餅《ちのり》が分解して土間に吸い込まれるし、盛上った灰が又、湿気のためにピシャンコになっているので、その下に在った塵屑《ごみくず》の形を、浮彫《レリーフ》みたいに浮き出させている。マッチの棒、鼻緒の切端《きれはし》、藁切《わらきれ》など……その中に煙草の吸殻らしいものが一個、平べったく粘り付いているのが眼に付いた。多分、犯行当時は真黒な血餅の下に沈んでいたので、誰にも気付かれないまま灰を振りかけられたものであろう。
 その吸殻に懐中電燈を照しかけながら、念入りに検分してみると、それは半分以上吸い残した両切《りょうぎり》煙草が、血の湿気のために腹を切って展開《ひろが》った奴で、バットかエアシップぐらいの大きさの巻きらしい。ステッキの尖端でその周囲を引っ掻いてみたが、吸口《すいくち》らしいものはどこにも見当らなかった。ただ血と灰とが混合して発生したらしい※[#「※」は「草かんむり+斂」、第4水準2−87−15、257−10]《えぐ》い、甘い臭気がプーンとしただけであった。吾輩はホッと溜息をして顔を上げた。
 金口《きんぐち》でない両切煙草を、吸口無しで吸う奴は、相当のインテリだろう。新聞記事によると、殺された老爺《じじい》は傍に刻《きざ》みの煙草盆を引寄せていたというのだから十中八九、これは犯人が吸い棄てたものではないか……しかも半分以上残っているところを見ると、吸いさしたまま投棄てて犯行に移ったものではないか。その上から血餅が盛り上り、灰が引っ被《かぶ》さって今日《こんにち》まで残っていたものではないか。犯人が絶対に予期しなかった……同時に警察にも新聞記者にも気付かれなかった偶然の結果が、今日に到って、吾輩の眼の前に正体を暴露しているのではないか。
 ……占《し》めた……名探偵名探偵。何という幸先《さいさき》のいい発見だろう……これは……。
 ……神は正直の頭《こうべ》に宿るだ。吾輩の投げた一銭玉に八幡様が引っかかったらしい……。
 ……モウ他には無いか……スバラシイ手懸りは……。
 吾輩は暗い空屋の中で朗らかになりかけて来た。すこし注意力を緊張さえすれば名探偵になるのは造作もない事だ……なんかとタッタ一人で増長しいしい消えたバットに火を点けた。悠々たる態度でその血の痕跡《あと》と、上り框の関係を見較べた。
 被害者の右脇に在る鉄槌《かなづち》を右手で(犯人を右利きと仮定して)取上げて、老爺《おやじ》の頭を喰らわせるのに都合のいい位置を考え考え、上り框に腰を掛け直してみた結果、老爺の右手の二尺ばかり離れた処が丁度いいと思った。
 吾輩……すなわち犯人は、おやじがどこかへ現金を溜めている事を人の噂か何かで知っている。だから家内の様子を見定めるつもりで……泥棒に這入る瀬踏みのつもりで、夜遅く、老爺がタッタ一人で寝ているところを、近所へ気取《けど》られないように呼び起して、取りあえず上等の下駄を買って、上等の鼻緒をスゲさせている……つもり[#「つもり」に傍点]になってみる。そうして正直者の老爺が一生懸命に仕事をしている隙《すき》に、煙草を吹かし吹かしジロジロとそこいらを見廻していたであろう犯人の態度を真似てみる。つまり一廉《ひとかど》の名探偵を学んだ独芝居《ひとりしばい》であるが、やってみると何となく鬼気が身に迫るような気がする。そのうちに、フト頭の上の半分割れた電燈の笠を見上げたトタンに我輩は又、一つの素晴らしいインスピレーションにぶつかった。犯人のその時の心理状態がわかったように思ったので、吾ながらゾーッとさせられた。
 その電燈の位置と、血の痕跡《あと》の位置とを見比べて、老爺《おやじ》が仕
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