套と、雪駄《せった》と、鳥打帽を風呂敷に包み込んで、テニス靴を穿いて、白い粉をポカポカッとハタいて、棒紅をチョコチョコと嘗《な》めただけの芸当には違いないが、それにしてもアンマリ早過ぎる。況《いわ》んやそれを玄関番が見た時は店員で、エレベーターボーイが見た時は令嬢だったというんだから大胆といおうか不敵といおうか、唯々舌を捲かざるを得ない。おまけにその容易ならぬ曲者《くせもの》は、吾輩の顔を見ると、溶《と》ろけるような心安さでイキナリニッコリと笑いかけたものだ。
「お久しう御座います。羽束さん」
 吾輩は二三歩ヨロヨロと後《うしろ》に退《さが》った。
 ……何がお久し振りだ。……何が羽束さんだ……。
 と唾液《つば》を嚥《の》み込み嚥み込み相手の顔を白眼《にら》み付けたが、その瞬間に……ヤアーッ……と叫んで天井に飛び上りたくなった。
 ……お久しい筈だ。この女こそ箱師のお玉といって名打ての女|白浪《しらなみ》だ。東京で警視庁に上げられる度《たび》に、吾輩から感想を話させられた女だ。この女の身の上話を雑誌にヨタッたお蔭で吾輩は多量の原稿を稼いでいる。いわば吾輩の大恩人だ……と気が付くトタンに吾輩の心理状態がクルリと転向した。
 西洋の名探偵心理から、一足飛びに、純粋の江戸ッ子心理に寝返りを打った訳だ。もっとも好き好んで変化した訳じゃない。そうしなければ太刀打《たちうち》出来ない窮境に陥りかけている事を本能的に自覚したせいであったろう。トタンにお玉が差し伸べた手をシッカリと握ったものだ。お玉は吾輩の耳元に唇を寄せて囁いた。
「羽束さん。あんた非道《ひど》い人ね、あたしをどこまで苛《いじ》めるつもり……」
 可哀相にお玉の眼には涙が浮かんだ。あとの文句は聞かずともわかっている。東海道で稼げなくなって、上海《シャンハイ》、長崎の門管ラインに乗換えたところを又、古|疵《きず》同然の吾輩に附き纏われてはトテモ叶《かな》わないというのだろう。吾輩は然《そぞ》ろにお玉の窮況に同情してしまった。
「ね。後生《ごしょう》だから今日だけ、お狃染甲斐《なじみがい》に妾《わたし》を助けて頂戴。ね。妾、武雄《たけお》の温泉で長崎から宝石入りの麻雀《マージャン》を抱えて来た男の荷物を置き換えて来たんだから。その男が税関の役人に押えられる間際によ。そうしたら、武雄の刑事が喰い付いて来たから、妾ここで振り撒《ま》くつもりで降りたらモウ一人福岡署から加勢が来ている上に、アンタまで跟《つ》けて来るんだもの。妾モウすっかり観念しちゃったけど、アンタの気心がまだわからないから、行くところまで行ってみるつもりでここまで来てみたのよ。……ね……アンタ後生だから今夜妾と一緒に泊って頂戴。アンタ今、どこかここいらの新聞社に這入っているんでしょ。だから妾を奥さんにでもして、一緒に泊めて頂戴。御恩は一生忘れないから。仕事は山分けにしてもいいから……ね……後生だから……ネッ……ネッ!」
 と云ううちに燃ゆるような熱情を籠めた眼付で、今一度、吾輩を見上げ見下《みおろ》した。吾輩はその瞬間純色透明になったような気がした。この素寒貧《すかんぴん》姿を見上げ見下ろされては、腸《はらわた》のドン底まで見透《みす》かされざるを得ない。純色透明にならざるを得ない。吾輩は黙って一つ大きくうなずいた。大いに引受けたところは誠に立派な男であったが、トタンに眼の前で、桃色と山吹色の夢の豪華版が渦巻いたのは吾ながら浅ましかった。事実この時に吾輩は夢ではないかと自分自身を疑ったくらいだ。地獄から極楽へ鞍替えをした亡者はコンナ気持ちだろうと思って、ひとりでに胸がドキドキした事を告白する。
 吾輩はそれから鷹揚《おうよう》な態度で、支配人の霜川なる人物を呼び出して特等の部屋を命じた。中禿《ちゅうはげ》の温厚らしい支配人は、叮嚀に分けた頭を叮嚀に下げて、紅茶を入れた魔法瓶を手ずから提げて来て最上階の見事な部屋に案内した。さながらに映画スターの私室《プライベート》然たる到れり尽せりの部屋だ。モット立派な部屋を見た事は何度もあるが、しかしそれは単に見ただけで泊った事は一度も無い事を念のため今一つ告白しておく。況んや、お玉みたような別嬪《べっぴん》と、同じ卓子《テーブル》でカクテルを傾けようなんて運命を、夢にも想像し得なかったのは無論であった。甚だ甘いところばかり告白して申訳ないが、事実は甚だ苦々しいんだから勘弁して頂きたい。
「ねえ御覧なさい。いい月夜じゃないの」
「ああ。博多湾ってコンナに景色のいい処たあ思わなかったね。玉ちゃん初めてかい」
「ええ。初めてよ。いわば商売|讐《がたき》のアンタとコンナ処でコンナ景色を見ようなんて思わなかったわ。チイットばかりセンチになりそうだわ」
「――僕もセンチかミリになりそうだ。ね
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