ねて、新聞に色魔と書かれたので一縮《ひとちぢ》みになって逃げて来た男であった。所謂《いわゆる》、江戸ッ子の喰詰めで、旅先へ出ると木から落ちた猿同然の心理状態に陥っている矢先であった。溺れた者が藁《わら》でも掴む気で、お近婆さんの好意に甘えていたもので、今ではもうウンザリしかけているところへ、この話を聞かされたので、何の事はない五十銭銀貨の山を目当てにフラフラと九州へ来て、フラフラと八幡宮横の惣兵衛の家を探し当てて、フラフラと惣兵衛を呼起して下駄を誂《あつら》えたものであった。だから惣兵衛の横に腰をかけてバットを一服吸い付ける迄の吉之介には、殺意なんか無論、無かった。その五十銭銀貨の山を盗み取る気さえ無かったという。
 むろん警察ではソンナ申立ては絶対に信じなかった。無理遣りに計劃的な犯罪として調書を作り上げて検事局へ廻わしたもので、新聞記事もその調書の通りに書いておいたが、それでも後家のお近婆さんだけは大目玉を喰っただけで無罪放免をされた。つまりこの後家さんとこの事件に対する関係は、山羊髯編輯長と、警察の見込との双方ともが適中して、双方とも外れていた訳である。
 その以外の事実は全部名探偵……すなわち吾輩の推量通りであった。
 元来が荒事《あらごと》に慣れない、無類の臆病者の吉之介は兇行後、現場《げんじょう》の恐ろしさに慄《ふる》え上がって一旦は逃げ出して附近の安宿に泊った。しかし、それから又、五十銭銀貨の事を思い出したので、翌る晩の真夜中から、一生懸命の思いで、人目を忍んで、空屋に這入って懐中電燈の光りで探しまわった結果、やっと三晩目に台所の漬物桶の底から、真黒になった銀貨二千余円を発見するとスッカリ大胆になってしまった。その金を稀塩酸で磨いて、紙の棒に包んだのを資金として、故意《わざ》と直ぐの隣家《となり》に理髪店を開いていたところは立派な悪党であった。こうしていれば誰にも判明《わか》る気遣いは無いと、安心し切っていたものであった。だから後家さんが帰って来てから自分に疑いをかけて、何度も何度も詰問しに来たけれども都合よくあしらって、知らん顔をしていたという。その大胆不敵さには箱崎署も舌を捲いていた。
 発覚の端緒は現場に捨てて在った両切の煙草であった。斯様《かよう》な微細な点に着眼して、附近に住む両切煙草の使用者を片端《かたっぱし》から調べ上げた箱崎署の根気と苦
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