事をしている状態を想像すると、ちょうど電燈の真下の処に老爺の禿頭《はげあたま》が来る事になる。デンキとデンキの鉢合わせだ。嘸《さぞ》テカテカと光っていた事であろう。
 近所|隣家《となり》は寝鎮《ねしず》まった、深夜の淋しい横町である。ほかには誰も居ない空屋同然の家の中で、両切《りょうぎり》を吹かしながらその禿頭を睨んでいた犯人の気持は誰しも想像出来るであろう。そこへ何も知らない老爺が、鼻緒を引締めるために、力を入れながら前屈《まえかが》みになる。テカテカ頭を電燈の下にニューと突き出す。トタンに使い終った重たい鉄槌《かなづち》を無意識に、犯人の鼻の先へゴロリと投出す。
 ……これじゃ殴らない方が間違っている。何の気も無い人間でもチョットの間《ま》……今だ……という気になるだろう。笑っちゃいけない。そんな千載の一遇のチャンスにぶつかれば吾輩だって遣る気にならないとは限らない。禿頭と鉄鎚の誘惑に引っかからないとは限らない。人間の犯罪心理というものはソンナところから起るものだ。つまりこの事件はホンノ一刹那に閃めいた犯罪心理が、ホンノ一刹那に実現されたものに過ぎないのではないか……という事実が考えられ得る。両切を吸口無しで吸ったり、上等の下駄を穿いたりするインテリならば……殊に虚無主義的《ニヒリステック》な近代の、文化思想にカブレた意志の弱い人間ならば尚更、文句なしに、そうしたヒステリー式な犯罪をやりかねないであろう可能性がある。
 吾輩はズット以前、借金|取《とり》のがれの隙潰《ひまつぶ》しに警視庁の図書室に潜り込んで、刑事関係の研究材誌を読んだ事がある。その時に何とかいう仏蘭西《フランス》の犯罪学博士の論文の翻訳の中に出ていた「純粋犯罪」という名称を思い出した。犯罪に純粋もヘチマも在ったものではないが、つまり何の目的も無しに、殺してみたくなったから殺した、盗んでみたくなったから万引したという、ホントウの慾得を忘れた犯罪心理……生一本《きいっぽん》の出来心から起った犯罪を純粋犯罪というのだそうで、この種の犯罪は世の中が開けて来るに連れて殖《ふ》えて来るものである。如何なる名探偵と雖《いえど》も、絶対に歯を立て得ない迷宮事件の核心を作るものは、外ならぬこの「純粋犯罪心理」……とか何とか仰々《ぎょうぎょう》しく吹き立ててあった。……まさかソレ程の素晴らしい、尖端的なハイカラ犯
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