「……僕は……乞食じゃありません」
「イヤ……わ……悪かった。この場だけはドウゾ……拝むから……」
「いけません。書いてちょうだい。すっかりスッパ抜いて頂戴……」
「承知しました。ヘヘヘ……これで血も涙もありますよ」
「……ハハア。貴様は社会主義か……」
 安島二郎氏の顔付きが突然、打って変ったように兇悪になった。
 金持のお道楽に反抗する奴は、みんな社会主義者と思っているらしい口ぶりだ。
 警察に命じて容赦なく引っ括《くく》らせて、貴様の口を塞《ふさ》いで見せるぞ……という威嚇も、その兇悪な面構《つらがま》えの中に含んでいるようだ。
「ナニッ……」吾輩はいきなりグッと来てしまった。「……ナ……何を吐《ぬ》かしやがんだ。貴様みたいな奴が社会主義者を製造するんだ」
 二郎氏は素早く右のポケットに手を入れた。その手に飛び付いて吾輩はシッカリと押えた。
「俺を殺して、暗《やみ》から暗《やみ》へ葬る気か。エエッ。これでも日本国民だぞ。犬猫たあ違うんだぞ……」
「……イ……犬猫以上だ。コ……国体に背《そむ》く奴だ」
「ウップ。血迷うな。貴様の家《うち》の……安島子爵家の定紋の附いた俥《くるま》が、ヨリ子の下宿の前に着いているところを、写真に撮ってあるんだぞ。その方が国体に拘わるじゃないか……エエッ……」
 この威嚇は、たしかに利き過ぎるくらい利いたらしい。夫婦の顔色が同時に土のように暗く変化した。同時に二郎氏のポケットの中の指がムズムズと動いた。ピストルの引金を探っている様子だ。
 ……ハッ……と思ったトタンに吾輩の手が反射的に動いた。安島二郎の下顎がガチンと鳴った。義歯《いれば》の壊れたのがダラリと唇から流れ出した。そいつを一本背負いに支那|絨氈《じゅうたん》の上にタタキ付けると同時に、轟然とピストルが鳴った。その弾丸《たま》が部屋の隅のグランドピアノを貫いたらしく、器械の間を銛丸《ブレット》がゴロゴロと転がり落ちる音が、何ともいえない微妙な音階を奏《かな》でた。
 その音が消えないうちに吾輩は応接間を飛出した。
 夫人はトウの昔に眼を白くして、床の上に引っくり返っていた。

 社へ帰ると吾輩は、すぐに写真室に駈け込んだ。千代町の電車通りの角に行って、ヨリ子の下宿の写真と、ヨリ子の寝顔を撮って来いと、飲み友達の写真師に命じた。序《ついで》に安島二郎氏夫妻の写真をカードの中か
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