底の暗黒にスッカリ慣れ切って、自分の生れ故郷みたような懐かし味をさえ感じていたばかりでなく、生れ付き頭が悪いせいか、かなり危険な目に会っても無神経と同様で、滅多に感傷的な気持になった事はないのであった。
 ところが去年の暮近くになって女房というものを持ってからというものは、何となく身体《からだ》の工合が変テコになって、シンが弱ったように思われて来るに連れて、色んな詰《つま》らない事が気にかかり始めたのを、頭の悪いなりにウスウス意識していた。ことにこの時は一|番方《ばんかた》から二番方まで、十八時間ブッ通しの仕事を押付けられて、特別に疲れていたせいであったろう。頭が妙に冴えて来て、何ともいえない気味の悪さが、上下左右の闇の中から自分に迫って来るように思われて仕様がなくなったのであった。
 ……俺も遠からず、あんげなタヨリない声で呼ばれる事になりはせんか……。
 ……ツイ今しがた仕繰夫《しくり》(坑内の大工)の源次を載せて、眼の前の斜坑口《しゃこうぐち》を上って行った六時の交代前の炭車《トロッコ》が索条《ロープ》でも断《き》れて逆行《ひっかえ》して来はせんか……。
 ……それとも頭の上の硬炭《ボタ》が今にも落て来はせんか……。
 といったようなイヤな予感に次から次に襲われ始めると同時に、それが疑いもない事実のように思われ出して、吾知らず安全燈《ラムプ》の薄明りの中に立ち竦《すく》んでしまったのであった。
 すると、そうした不吉な予感の渦巻の中心に何よりも先に浮かんだのは、女房のお作《さく》の白い顔であった。
 お作というのは福太郎よりも四ツ五ツ年上であったが、まだ何も知らなかった好人物《おひとよし》の福太郎に、初めてにんげんの道[#「にんげんの道」に傍点]を教えたお蔭で、今では福太郎から天にも地にも懸け換えのないタッタ一人の女神様のように思われている女であった……だからその母親か姉さんのようになつかしい……又はスバラシイ妖精《ばけもの》ではないかと思われるくらい婀娜《あだ》っぽいお作の白々と襟化粧《えりげしょう》をした丸顔が、モウ二度と会われない幽霊か何ぞのようにニコニコと笑いながら、ツイ鼻の先の暗黒《くらやみ》の中に浮かみ現われた時に、福太郎は思わずヨロヨロと前にノメリ出しそうになった。そうして初めてお作に会った時からの色々な曰《いわ》く因縁の数々を思い出しながら、今
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