壁から反射する薄明りの中を、頭を打たない用心らしく、背中を丸くして突伏したまま揺られて行った。着ている印半纏《しるしばんてん》の背印は平常《いつも》の※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、312−16]《カネ》サとは違っていたけれども、その半纏の腋の下の破れ目から見えた軍隊用の青い筋の這入った襯衣《シャツ》と、光るほど刈り込んだ五分刈頭の恰好が、源次のうしろ姿に間違いないのであった。しかもソンナ風に頭を抱えて小さくなった源次のうしろ姿を今一度、お作の白い顔と並べて思い出した福太郎は、怖ろしいというよりも寧《むし》ろ、何だか済まないような……源次に怨まれるのは当然《あたりまえ》のような気がして仕様がなくなった。源次の姿を吸い込んで行った斜坑の暗黒《くらやみ》に向って、人知れずソッと頭を下げてみたいようなタヨリない気持にさえなったのであった。
 しかし福太郎は間もなくそんな思出や、感傷的な気持の一切合財が、クラ暗の中で冴え返って行く自分の神経作用でしかないようにも思われて来たので、そんな馬鹿げた妄想の全部を打切るべく頭を強く左右に振った。するとその拍子に左手に提げている安全燈《ラムプ》の光りがクルクルと廻転するに連れて、今度は眼の前の岩壁の凸凹《でこぼこ》が、どこやら痩せこけた源次の顔に似ているように思われて来た。しかも誰かに打ち殺された無念の形相《ぎょうそう》か何ぞのように、ジッと眼を顰《しか》めていて、一文字に噛み締めている岩の唇の間から流れしたたる水滴が、血でも吐いているかのように陰惨な黒光りをしているのに気が付いた。
 ところが、その黒い水の滴《した》たりを見ると福太郎は又、別の事を思い出させられて、吾《われ》知らず身ぶるいをさせられたのであった。
 その岩の間から洩れる水滴が、奇怪にも摂氏六十度ぐらいの温度を保っている事を、福太郎はズット前から聞いて知っていた。それはその岩の割目の、奥の奥の深い処に在る炭層の隙間に、この間の大爆発の名残りの火が燃えていて、その水の通過する地盤をあたためているせいである……而《しか》も炭坑側ではそれを手の附けようがないままに放《ほ》ったらかして、構わずに坑夫を入れているのであるが、そのうちにだんだんとその火熱が高くなって来る一方に坑内の瓦斯《ガス》が充満して来たら、又も必然的に爆発するであろう事が今からチャンと解り切ってい
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