し》そうに空気を喰って舌なめずりをしている者。今にも溺れ死にそうな声を出してイビキを掻いている者など……だいぶ夜が更けているらしい光景である。
 万平は今一度ハッとして胸をときめかした。寝過したかな……と思ってソッと起上って、出来るだけ静かに階段を降りて、土間を跣足《はだし》で台所に来てみると十一時半である。
 ……間に合った……と思うと万平はホッとした。同時に、どうしていいかわからないままタッタ一人で頭を掻き掻きそこいらを見まわした。
 フト思い付いて帳場の隅に立てかけてある親方用の、銀金具の短かい鳶口《とびぐち》に手をかけたが、又、思い直して旧《もと》の処に置いた。何かいい得物はないか……といった格好でそこいらを見まわしていたが、その中《うち》に右手の握り拳でボンと左の掌《てのひら》を打った。ニヤリと笑いながら、親方とお神さんが床を並べて寝ている茶の間に忍び込んだ。芝居で見覚えている通りの泥棒の腰付で、部屋の隅の衣桁《いこう》に掛けてあるお神さんの派手な下着と、昼夜帯をソーッと盗み出した。その足で抜き足、さし足一番奥の湯殿へ忍び込んで、ピッタリと戸締りをしてから、電燈をひねった。
 万平は鏡台の前に座って勇ましく双肌脱《もろはだぬ》ぎになった。鏡台の曳出《ひきだし》を皆開け放して、固練《かたねり》の白粉《おしろい》で胸から上を真白に塗りこくり、首筋の処を特に真白く、青光りする程塗上げた。鏡を覗きながら眉と、生《は》え際《ぎわ》を念入りに黛《まゆずみ》で撞《つ》き上げた。手首と足首を爪先まで白くする事も忘れなかった。それからお神さんの下着を着て昼夜帯を胸高に締め白い襟を思い切り突越した。それから鏡台の一番下の曳出《ひきだし》に詰まっているスキ毛を掴み出して元結《もとゆい》で頭にククリ付けた。その上から手拭を冠って今一度鏡を覗いてみた。
 それは余り上出来ではなかったが、ともかくも気味の悪いなりに女の恰好に見えたので、万平は相当満足したらしい。ニヤリと笑って立上りながら今度は背後《うしろ》姿を写してみた。それから電燈を消して、足探りで台所|草履《ぞうり》を穿いて、裏口へ出て、アトをピッタリと閉めた。
 風呂場の横の裏口には、細長いタイルの破片が二つ三つ落ちていた。その一つを拾った万平は、向うの壁に干してある、誰かの越中褌《えっちゅうふんどし》で包んでシッカリと紐《ひ
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