と云ううちにお神さんが万公の前へ剥げチョロケたお膳とお櫃《ひつ》を押し遣った。
 万公は上り框《かまち》に両手を突いたままメソメソ泣出していた。それはお神さんの親切に対する有難涙でもなければ、親方に叱られた口惜し涙でもなかった。
 ……この世の中には芝居以上に真剣な、危なっかしい事がイクラでもあります。私はそのために今まで闘って来たのです。私の今の気持は芝居どころじゃないのです……。
 と云いたくてたまらないのに、どうしてもそれが口に出して云えない、情なさからの涙であった。
「まあ。万ちゃん。泣いてるじゃないの。可哀そうに……御覧よ。お前さんがアンマリ叱るから万ちゃん泣いてるじゃないの。咽喉《のど》をビクビクさして……さあさあ、もういいから御飯お上り。ね。ね」
「テヘッ。呆れて物が云えねえ。咽喉のビクビクが可哀相なら、引っくり返《けえ》った鮟鱇《あんこう》なんか見ちゃいられねえや。勝手にしやがれだ。ケッ……」
 親方はそのまま、勝手口から下駄を突っかけてプイッと出て行ってしまった。あとを見送ったお神さんがプーッと膨れ返った。
「あんな事を云って出て行ったよ。又、一軒隣へヘボ将棋で取られに行ったんだよ。妾《わたし》がアンマリ止めるもんだから、出て行くキッカケがなかったんだよ。呆れっちまうよホントに……将棋なんて何が面白いんだろうね。取られてばかりいて……芝居ならまだしもだけど……ねえ。万ちゃん……」
 万平はお膳の上にポロポロ涙を落しながら点頭《うなず》いた。そのままガツガツと茶漬飯を掻込んだ。

「ヨー色男」
 飯を喰った万平が、表二階の若衆部屋へ上って行くと、皆どこかへ遊びに行ってガランとした部屋の隅に、早くも床を取って寝ていた朋輩の粂吉《くめきち》が、頭を持ち上げてソウ云った。最前からの経緯《いきさつ》を聞いていたらしい。小声で云った。
「お神さん惚れてるぜお前に……」
 万平は返事をしなかった。そのまま自分も蒲団を敷いてモグリ込んだ。
 ……手前《てめえ》等に俺の気持が、わかるか……。
 といったような気持で、夜の更けるのを待った。
 万平は実際、真剣であった。眠るどころの沙汰ではなかった。別段、惚れているという訳ではないけれども、あの可愛い桃割髪《ももわれ》の娘が弐千円のお金と一所に、あの凄者《すごもの》らしい青年に見す見す引っ泄《さら》われて行くのを、
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング