死後の恋
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嘸《さぞ》かし

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)旧|露西亜《ロシア》

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(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]
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       一

 ハハハハハ。イヤ……失礼しました。嘸《さぞ》かしビックリなすったでしょう。ハハア。乞食かとお思いになった……アハアハアハ。イヤ大笑いです。
 あなたは近頃、この浦塩《うらじお》の町で評判になっている、風来坊のキチガイ紳士が、私だという事をチットモ御存じなかったのですね。ハハア。ナルホド。それじゃそうお思いになるのも無理はありません。泥棒市に売れ残っていた旧式のボロ礼服を着ている男が、貴下《あなた》のような立派な日本の軍人さんを、スウェツランスカヤ(浦塩の銀座通り)のまん中で捕まえて、こんなレストランへ引っぱり込んで、ダシヌケに、
「私の運命を決定《きめ》て下さい」
 などと、お願いするのですからね。キチガイだと思われても仕方がありませんね。ハハハハハ……しかし私が乞食やキチガイでないことはおわかりになるでしょう。ネエ。おわかりになるでしょう。酔っ払いでないことも……さよう……。
 お笑いになると困りますが、私はこう見えても生《は》え抜きのモスコー育ちで、旧|露西亜《ロシア》の貴族の血を享《う》けている人間なのです。そうして現在では、ロマノフ王家の末路に関する「死後の恋」という極めて不可思議な神秘作用に自分の運命を押えつけられて、夜《よ》もオチオチ眠られぬくらい悩まされ続けておりますので……実は只今からそのお話をきいて頂いて、あなたの御判断を願おうと思っているのですが……勿論それは極めて真剣な、且つ歴史的に重大なお話なのですが……。
 ……ああ……御承知下さる……有り難う有り難う。ホントウに感謝します。……ところでウオツカを一杯いかがですか……ではウイスキーは……コニャックも……皆お嫌い……日本の兵士はナゼそんなに、お酒を召し上らないのでしょう……では紅茶。乾菓子《コンフェートム》。野菜……アッ。この店には自慢の腸詰《ソーセージ》がありますよ。召し上りますか……ハラショ……。
 オイオイ別嬪《べっぴん》さん。一寸《ちょっと》来てくれ。註文があるんだ。……私は失礼してお酒をいただきます。……イヤ……全く、こんな贅沢な真似が出来るのも、日本軍が居て秩序を保って下さるお蔭です。室《へや》が小さいのでペーチカがよく利きますね……サ……帽子をお取り下さい。どうか御ゆっくり願います。
 実を申しますと私はツイ一週間ばかり前に、あの日本軍の兵站《へいたん》部の門前で、あなたをお見かけした時から、ゼヒトモ一度ゆっくりとお話ししたいと思っておりましたのです。あなたがあの兵站部の門を出て、このスウェツランスカヤへ買い物にお出《い》でになるお姿を拝見するたんびに、これはきっと日本でも身分のあるお方が、軍人になっておられるのだな……と直感しましたのです。イヤイヤ決してオベッカを云うのではありませぬ……のみならず、失礼とは思いましたが、その後《のち》だんだんと気をつけておりますと、貴下《あなた》の露西亜《ロシア》語が外国人とは思われぬ位お上手なことと、露西亜《ロシア》人に対して特別に御親切なことがわかりましたので……しかもそれは、貴下《あなた》が吾々同胞《わたくしたち》の気風《きもち》に対して特別に深い、行き届いた理解力を持っておいでになるのに原因していることが、ハッキリと私に首肯《うなず》かれましたので、是非ともこの話を聞いて頂く事に決心してしまったのです。否、あなたよりほかにこのお話を理解して、私の運命を決定して下さるお方は無いと思い込んでしまったのです。
 さよう……只きいて下されば、いいのです。そうして私がこれからお話しする恐しい「死後の恋」というものが、実際にあり得ることを認めて下されば宜しいのです。そうすればそのお礼として、失礼で御座いますが、私の全財産を捧げさして頂きたいと考えておるのです。それは大抵の貴族が眼を眩《ま》わすくらいのお金に価するもので、私の生命にも換えられぬ貴重品なのですが、このお話の真実性を認めて、私の運命を決定して下さるお礼のためには、決して多過ぎると思いません。惜しいとも思いませぬ。それほどに私を支配している「死後の恋」の運命は崇高と、深刻と、奇怪とを極めているのです。
 少々前置が長くなりますが、註文が参ります間、御辛棒《ごしんぼう》下さいませんか……ハラショ……。
 私がこの話をして聞かせた人はかなりの多数に上っております。同胞の露西亜《ロシア》人には無論のこと、チェックにも、猶太《ユダヤ》人にも、支那人にも、米国人にも……けれども一人として信じてくれるものがいないのです。そればかりか、私が、あまり熱心になって、相手構わずにこの話をして聞かせるために、だんだんと評判が高くなって来ました。しまいには戦争が生んだ一種の精神病患者と認められて、白軍《はくぐん》の隊から逐《お》い出されてしまったのです。
 そこでいよいよ私は、この浦塩《うらじお》の名物男となってしまいました。この話をしようとすると、みんなゲラゲラ笑って逃げて行くのです。稀《たま》に聞いてくれる者があっても、人を馬鹿にするなと云って憤《おこ》り出したり……ニヤニヤ冷笑しながら手を振って立ち去ったり……胸が悪くなったと云って、私の足下に唾を吐いて行ったり……それが私にとって死ぬ程悲しいのです。淋《さび》しくて情なくて堪らないのです。
 ですから誰でもいい……この広い世界中にタッタ一人でいいから、現在私を支配している世にも不可思議な「死後の恋」の話を肯定して下さるお方があったら、……そうして、私の運命を決定して下さるお方があったら、その方に私の全財産である「死後の恋」の遺品《かたみ》をソックリそのままお譲りして、自分はお酒を飲んで飲んで飲み死にしようと決心したのです。そうして、やっとのこと貴下《あなた》を発見《みつ》けたのです。あなたこそ、「死後の恋」に絡まる私の運命を、決定して下さるお方に違いないと信じたのです。
 ヤ……お料理が来ました。あなたの御健康と幸福を祝さして下さい。日本の紳士にこのお話をするのは、貴下が最初なのですからネ……そうして恐らく最後と思いますから……。

       二

 ところで一体、あなたはこの私を何歳ぐらいの人間とお思いになりますか、エ? わからない?……ハハハハ。これでもまだ二十四なのですよ。名前はワーシカ・コルニコフと申します。さよう、コルニコフというのが本名です……モスコーの大学に這入《はい》って、心理学を専攻して、やっと一昨年出て来たばかりの小僧ッ子ですがね。四十位には見えますでしょう。髪毛《かみのけ》や髯《ひげ》に白髪《しらが》が交っていますからね。ハハハハハ。しかし私は、今から三ヶ月前迄は間違いなく二十代に見えたのです。白髪などは一本も無くて、今とは正反対のムクムク肥った黒い顔に、白軍の兵卒の服を着ていたのですから……。
 ところが、それがたった一夜の間に、こんな老人《としより》になってしまったのです。
 詳しく申しますと、今年(大正七年)の、八月二十八日の午後九時から、翌日の午前五時までの間のこと、……距離で云えば、ドウスゴイ附近の原ッパの真中に在る一ツの森から、南へ僅《わず》か十二|露里《ろり》(約三里)の所に在る日本軍の前哨《ぜんしょう》まで、鉄道線路伝いによろめいて来る間のことです。そのあいだに今申しました……不可思議な「死後の恋」の神秘力は、私を魂のドン底まで苦しめてこんな老人《としより》にまで衰弱させてしまいました……。……どうです。このような事実を貴下《あなた》は信じて下さいますか。……ハラショ……あり得ると思われる……と仰言《おっしゃ》るのですね。オッチエニエ、ハラショ……有り難い有り難い。
 ところで最前も一寸《ちょっと》申しました通り、私はモスコー生まれの貴族の一人息子で、革命の時に両親を喪《うしな》いましてから後《のち》、この浦塩へ参りますまでは、故意《わざ》と本名を匿《かく》しておったのですが、あまり威張れませんが生れ付き乱暴なことが嫌いで、むしろ戦争なぞは身ぶるいが出る程好かなかったのです。然《しか》し今申しましたペトログラードの革命で、家族や家産を一時に奪われて極端な窮迫に陥ってしまいますと、不思議にも気が変って参りまして、どうでもなれ……というような自殺気分を取り交《ま》ぜた自暴自棄の考えから、一番嫌いな兵隊になったのですが、それから後《のち》幸か不幸か、一度も戦争らしい戦争にぶつからないまま、あちらこちらと隊籍をかえておりますうちに、セミヨノフ将軍の配下について、赤軍《せきぐん》のあとを逐いつつ、御承知でも御座いましょうがここから三百露里ばかり距《へだ》たった、烏首里《ウスリ》という村へ移動して参りましたのが、ちょうど今年の八月の初旬の事でした。そうしてそこで部隊の編成がかわった時に、このお話の主人公になっているリヤトニコフという兵卒が私と同じ分隊に這入ることになったのです。
 リヤトニコフは私と同じモスコー生れだと云っておりましたが、起居動作が思い切って無邪気で活溌な、一種の躁《はしゃ》ぎ屋と見えるうちに、どことなく気品が備わっているように思われる十七、八歳の少年兵士で、真黒く日に焼けてはいましたけれども、たしかに貴族の血を享《う》けていることが、その清らかな眼鼻立ちを見ただけでもわかるのでした。
 彼はこの村に来て、私と同じ分隊に編入されると間もなく、私と非常な仲良しになってしまって、兄弟同様に親切にし合うのでした。……といっても決して忌《いま》わしい関係なぞを結んだのではありませぬ。あんな事は獣性と人間性の矛盾を錯覚した、一種の痴呆患者のする事です……で……そのリヤトニコフと私とは、何ということなしに心を惹《ひ》かれ合って隙《ひま》さえあれば宗教や、政治や芸術の話なぞをし合っているのでしたが、二人とも純な王朝文化の愛惜者であることが追々《おいおい》とわかって来ましたので、涙が出るほど話がよく合いました。殺風景な軍陣の間に、これ程の話相手を見つけた私の喜びと感激……それは恐らく、リヤトニコフも同様であったろうと思われますが……その楽しみが、どんなに深かったかは、あなたのお察しに任せます。
 けれども、そうした私たちの楽しみは、あまり長く続きませんでした。その後間もなくセミヨノフ軍の方では、この村に白軍が移動して来たことを、ニコリスクの日本軍に知らせるために、私達の一分隊……下士一名、兵卒十一名に、二人の将校と、一人の下士を添えて斥候《せっこう》に出すことになりましたのです。さよう、……連絡斥候ですね。実は私は、それまで弱虫と見られていて、そんな任務の時にはいつでも後廻しにされていたので、今度も都合よく司令部の勤務に廻わされていましたから、占《し》めたと思って内心喜んでいたのですが、思いもかけぬ因縁に引かされて、自分から進んで行くようなことになりましたので……というのは、こんな訳です。
 その出発にきまった前日の夕方に……それは何日であったか忘れてしまいましたが、私がリヤトニコフや仲間の分隊の者に「お別れ」を云いに司令部から帰って来ますと、分隊の連中はどこかへ飲みに行っているらしく室《へや》の中には誰も居ません。ただ隅ッこの暗い処にリヤトニコフがたった一人でションボリと、革具《かわぐ》の手入れか何かをしていましたが、私を見ると急に立ち上って、何やら意味ありげに眼くばせをしながら外へ引っぱり出しました。その態度がどうも変テコで、顔色さえも尋常でないようです。そうして私を人の居ない廏《うまや》の横に連れ込んで、今一度そこいらに人影の無いのを見澄ましてから、内ポケットに手を入れて、手紙の
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