め驚いたが、間もなくその妙音に魅せられてしまった。
 哲也は武丸の持つ尺八を見ると青くなって座敷を辷《すべ》り出してどこへか急いで行った。
「罌子の花」を吹き終った武丸は尺八を霊前に捧げ、音絵の枕元に進み寄り、死に顔を見て黙祷し涙に掻き暮れた。
 狂人の表情になった養策が奥から出て来た。突立ったままこの光景《ありさま》を見下した。
 武丸は養策を見ると手を合せてひれ伏した。そのまま血を吐いて死んだ。
 哲也は戸塚警部を同伴して来た。
 戸塚警部は頭に繃帯をした武丸を見るとツカツカと近寄って引き起したが、忌々《いまいま》しそうに突き転《ころ》ばした。
 養策が高らかに笑い出した。
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   なまけものの恋



     ―― 1 ――

 作良徳市《さくらとくいち》は夢を見ていた。
 ……富豪の両親が一人子《ひとりっこ》の彼をこの上なく愛し育てているところ……
 ……彼が貰い立ての高等商業の卒業免状を家中《うちじゅう》に見せまわって祝福を受けているところ……
 ……震災で両親を喪《うしな》うと同時に莫大な遺産を受け継いで喜びと悲しみとに面喰っているところ……
 ……彼が放蕩を初めているところ……
 ……親戚や朋友の忠告をはね[#「はね」に傍点]つけているところ……
 ……とうとう一文無しになって馴染《なじみ》の女の処へ無心に行き愛想《あいそ》尽かしを喰って追い出されているところ……
 ……自棄酒《やけざけ》を飲んでますます落ちぶれて行くところ……
 そんな夢を次から次へ見ている最中に徳市はお尻の処を強く蹴られて眼を覚ました。
 彼は穢《きた》ない仕事着を着て石の上に腰をかけていた。前には人夫頭の吉《きち》が恐ろしい顔をして立っていた。徳市は眼をこすった。
 吉は徳市の尻を今一つ強く蹴った。
  又なまけていやがる……
  早く仕事をしないか……
 徳市は不承不承に立ち上った。道路工事の水揚《みずあげ》ポンプの柄《え》につかまった。

     ―― 2 ――

 吉は仕事を仕舞《しま》って帰って行く人夫の群れを見送った。
 徳市は吉の前に進み寄った。帽子を脱いでペコペコした。
  済みませんが給金をすこし……
 吉は彼を押し飛ばした。
  間抜けめ……
  貴様みたいな奴は喰わしておくだけでも損が立つんだ……
 吉はそのままスタスタと去った。
 徳市はうなだれて合宿の方へ歩いた。途中のバアの前で何度も立ち止まったが、懐《ふところ》へ手を入れると諦めて歩き出した。

     ―― 3 ――

 徳市はとある淋しい横町を通りかかった。
 立派な紳士が一人徳市のうしろから現れた。徳市の様子に眼をつけるとツカツカと近寄って肩に手をかけた。
 徳市は立ち止ってふり返った。
 紳士はニコニコして云った。
  若いの……
  一寸《ちょっと》そこまで来ないか……
  うまい仕事があるんだが……
 徳市は帽子を脱いだ。オズオズしながら云った。
  どんな御用ですか旦那……
 紳士は又ニッコリした。
  今夜十二時迄……
  君の身体《からだ》を借《か》してくれれば……
  十円上げるがどうだね……
 徳市は妙な顔をした。しかし又思い直した。決心したらしくお辞儀をした。
  お伴しましょう……
 紳士はうなずいた。ポケットから煙草を出して徳市にすすめた。マッチを擦って徳市のにつけてやり自分も吸い付けると、先に立ってあるき初めた。
 徳市も従《つ》いて行った――横町から――横町へ――

     ―― 4 ――

 紳士はとある路地の入口で立ち止まった。その角の家の硝子《ガラス》扉を押してふり返った。
 徳市はその家の小さな表札を見た。
 ┌────────┐
 │ 津島貿易商会 │
 └────────┘
 紳士は眼くばせをして中に這入《はい》った。
 徳市も這入った。中は立派な事務室であった。
 紳士は手ずから瓦斯《ガス》ストーブに火をつけて電気をひねった。その前の椅子に徳市を坐らせて差し向いになった。机の上の呼《よ》び鈴《りん》を押した。
 次の室《へや》へ通ずる入り口から眼の覚めるような美人が現れた。愛想よく叮嚀に徳市にお辞儀をした。
  いらっしゃいませ……
 徳市は慌てて礼を返した。
 美人は戸棚の内からウイスキーの瓶とコップを取り出して、二人の中に並べてなみなみと注《つ》いだ。
 徳市はお辞儀しいしい吸い付いた。
 紳士も一息に干した。
 美人は又一杯注いで叮嚀に徳市に一礼して次の間へ去った。
 紳士は溢るるばかりの愛嬌を見せて徳市に云った。
  承知してくれるでしょうね……
 徳市は飲みさして顔を上げた。口を拭いて真面目な顔になった。肩で息をしながら云った。
  どんな仕事でしょうか……
 紳士はますますニコニコした。ますます叮嚀に云った。
  何でもないんです……
  今夜十二時迄僕の云う通りになるのです……
  御承知なら唯今十円差し上げます……
  成功すれば百円差し上げるという証文を添えて……
  どうです……
 徳市はすっかり酔ってしまった。ワクワクフラフラしながらうなずいた。
 紳士はポケットからボロボロの十円札を一枚と証文のようなものを出して徳市の前に置いた。
 徳市は受け取って証文の署名を見た。
 ――浪越憲作《なみこしけんさく》――
 紳士――憲作は念を押すように云った。
  よろしいですね……
 徳市はうなずいて証文と十円札を懐に仕舞った。すぐにコップに手をかけた。
 憲作はニコニコして酌をしながら半分真面目に云った。
  人間は働らかねば駄目です……
 徳市は眼をつむってグ――ッと飲み干した。
 憲作は呼鈴《よびりん》を鳴らした。
 美人が出て来た。
 二人は眼くばせをし合って徳市を奥へ案内した。

     ―― 5 ――

 徳市は酔った眼であたりを見まわした。美事な洗面台や化粧台、バスなぞが眼に付いた。
 憲作と美人はヨロヨロする徳市を捕まえて腰を掛けさせた。
 徳市はフラフラ眠り初めた。
 憲作は徳市の頭を鋏《はさみ》でハイカラに苅り上げた。
 美人は徳市の髭《ひげ》と襟《えり》を綺麗に剃った。
 二人していつの間にかねむっている徳市をゆり起し、顔や手足を洗わせ、着物を脱がせて身体を拭い上げ、美事な背広や中折や靴やオーバーを与えて立派な紳士に作り上げた。そうして二階へ連れ上げた。
 徳市はやっと眼をさました。そこは立派な居間で真中の机に洋食弁当の出前が二つと西洋酒の瓶が二三本並んでいた。
 憲作は美人を徳市に紹介した。
  僕の家内の美津子です……
 徳市は夢に夢見るようにお辞儀をした。しきりに洋服の着工合を直した。しかし眼の前に御馳走を並べられると真剣に喰い付いた。
 憲作と美津子は顔を見合わせて笑った。

     ―― 6 ――

 憲作は徳市を連れて二三町往来を歩いた。
 徳市は酔って満腹して紳士になって夢心地でついて行った。
 憲作は辻待《つじまち》自動車を呼んで二人で乗って、東京第一の宝石店王冠堂へ来た。自動車を表に待たしたまま中に這入った。
 憲作は入口の処で徳市に云った。
  何でも黙って……
  うなずいているのですよ……
 徳市はわけもなくうなずいた。
 憲作は帳場の方へ行った。
 徳市は店の鏡にうつった自分の姿を見てハタと立ち止まった。……素晴しい若紳士……日に焼けた……骨格の逞ましい堂々たる最新流行……
 憲作は番頭の久四郎《きゅうしろう》に名刺を出して叮嚀にお辞儀をした。
  私は横浜の足立家の者ですが……
  若様の御婚約の品を……
  ダイヤの指環《ゆびわ》か何か……
 憲作は言葉の中に徳市を指《ゆびさ》した。
 番頭の久四郎はチラリと徳市の様子を見た。
 徳市は大鏡の前に立って慣れた手附きでネクタイを締め直していた。
 番頭久四郎は名刺を見た。
 ――足立商会会計主任 大島鹿太郎――
 久四郎は揉み手をしながら品物を取りに行った。
 徳市がネクタイを締直すと間もなく、鏡の奥に見える入口の硝子扉《ガラスど》が開いて母親らしい貴婦人に連れられた令嬢が這入って来たのが見えた。その令嬢は和装で女優かと見える派手好みであった。徳市はふり返って恍惚《こうこつ》となった。
 憲作が徳市の前に来てヒョコリとお辞儀をした。
  若様……
  一寸《ちょっと》品物を御覧遊ばして……
 徳市は気の向かぬげに帳場の方へ連れて行かれた。
 憲作はそこに拡げられたダイヤ入りの指環のケースをあれかこれかと撰《よ》って見せた。
 徳市は上《うわ》の空《そら》で唯うなずいてばかりいた。
 令嬢が近附いて来て徳市の前に拡げられた指環のケースを見た。その中の一つを欲しそうにした。
 憲作は最大のダイヤを撰り出して徳市にさし付けた。
 令嬢の眼はそのダイヤに注いだ。怪しく光った。
 徳市は憲作の手からその指環を取り上げてもとの通りケースに納めた。令嬢の前に押し進めた。
  どうぞお撰り下さい……
  私共はあとで宜《よろ》しゅう御座います……
 憲作と久四郎は妙な顔をした。
 貴婦人と令嬢は云い知れぬ感謝の眼付きをした。
 令嬢は恥じらいながら辞退した。
  まあ……
  どうぞお構いなく……
  あの……
 貴婦人も感謝に満ちた表情で云った。
  ま……
  恐れ入ります……
  イイエ……どう致しまして……
 徳市は幾度も手を振った。
  私のは贈り物にするのですから……
  ちっとも構いません……
  さあどうぞ……
 憲作と久四郎は別々に苦笑しながら三人の様子を見ていた。
 令嬢は辞退しかねた。嬌態を作ってお辞儀をした。
  では……
  あの……
  御免遊ばして……
 令嬢はケースの中から最前憲作が撰り出した最大のダイヤを抓《つま》み上げた。指にはめてみるとちょうどよかった。如何にも気まり悪そうに徳市の顔を見て笑った。
  あの……
  これを頂いても……
  よろしゅう御座いましょうか……
 徳市は溶《とろ》けるような顔をしてうなずいた。
 貴婦人と令嬢は深い感謝の表情をした。
 貴婦人は番頭の久四郎に指環の価格をきいた。
 久四郎は慌ててペコペコし出した。
  ヘイ……
  一千二百円で……ヘイ……
  毎度どうも……ヘイ……ヘイ……
 貴婦人は手提《てさげ》から札の束を出して勘定して久四郎に渡した。
 久四郎は今一度勘定して受け取った。ダイヤの指環をサックに入れて渡しながら盛んに頭を下げた。
 徳市はボンヤリ見とれていた。
 令嬢は手提から小さな名刺を出して一礼しながら徳市に渡した。
  あの……
  まことに失礼で御座いますが……
  わたくしはこのようなもので……
  唯今はまことに……
 徳市は名刺を受け取った。同時に自分の名刺のない事に気が附いてハッとした。
 憲作はすかさず自分の名刺を出して二人の婦人に徳市を紹介した。
 徳市はホッとしながら様子ぶって一礼した。
 貴婦人と令嬢は受け取った名刺を見ると一層叮嚀に恐縮した。
  まあ存じませんで失礼を……
  どうぞお序《ついで》でも御座いましたら……
  お立ち寄りを……
 徳市は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
 二人の婦人は去った。
 憲作は徳市に向って叮嚀に云った。
  ちょっと唯今のお名刺を……
 徳市は吾れ知らず握り締めていた。
 ――下六番町十九番地 星野智恵子――
 徳市はこの間の新聞にソプラノの名歌手として載っていた智恵子の肖像を思い出した。
 憲作はその名刺を横からソッと取って見た。
 徳市の顔を意味あり気に見ながらニヤリと笑った。
 この名刺は私がお預り致しておきましょう。
 徳市は不平そうにうなずいた。
 憲作は平気な顔で又ダイヤを撰《よ》り初めた。最も光りの強い新型に磨いたダイヤ入りの指環を撰《え》り出して徳市に見せた。
  これはいい……
  これはいかがで……
 徳市はボンヤリとうなずいた。
 憲作は久四郎に価格をきいた。
 久四郎は揉み手をした。
  四千七百円で御座い
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