難曲を一つ宛吹いて行った。
音絵は毎日蔭から聴き惚れていた。その中《うち》に心の奥底まで武丸の妙技に魅入られて来た。
―― 5 ――
大学生の赤島哲也は遊蕩三昧《ゆうとうざんまい》をするようになった。
以前、赤島家の書生であった警察署長の津留木万吾《つるきまんご》は忠義立てに哲也を捕まえて手強く諫言《かんげん》すると「音絵を貰ってくれぬから自暴糞《やけくそ》になったんだ」という返事であった。
津留木は飲み込んで父の鉄平にこの旨を談判した。
鉄平は「じゃ君に任せよう」と淋しく笑った。
津留木は平服で丸山家を訪れた。
養策が会ってみると「音絵を哲也の嫁に」という相談であった。
養策は「親戚とも相談したいから」と返事を待ってもらった。
署長は養策に送られて玄関まで来ると「どうぞ御都合のいい御返事をお待ちしております」と繰り返して云った。
竹林武丸が外に立ってきいていた。
引き返して来た養策は奥の間に音絵を呼んで「良縁と思うがどうだ」ときいた。
音絵は「お言葉に反《そむ》きたくはありませんがあの方ばかりは」と断った。
養策はすこし不機嫌で「それでは外に考えでもあるのか」と問うた。
音絵は「考えさして下さい」と逃げた。
―― 6 ――
この頃から巧妙な窃盗が横行して所の警察を悩まし初めた。その賊は頗《すこぶ》る大胆でどこへ這入るにも空色の眼鏡をかけているという事が新聞に出た。
音絵はその新聞を見ると武丸の眼鏡を思い出して怪しく胸が騒いだ。しかし真逆《まさか》と思いつつ幾日か過した。
―― 7 ――
赤島家に賊が這入って大金を奪い、且つ名器「玉山《ぎょくざん》」を掠《かす》め去った事が新聞に洩れて仰々しく書き立てられた。
津留木署長は青眼鏡の賊の捜索を担任している戸塚警部に全力を挙げるべく命じた。
―― 8 ――
或る日武丸の眼を診察した養策は「もういくらか見えはせぬか」と問うた。
武丸は淋しく笑って頭を振った。
養策は妙な顔をした。
武丸はそのまま丸山家の仏間に案内された。
仏壇にお茶を上げに来た音絵はあやまって茶碗を武丸の前に取り落した。
武丸は思わず身を退《ひ》いて転がりかけた茶碗を起したがハッと気が付いて微笑しつつ音絵の顔を見上げた。
武丸の活《い》き活きした眼と眼を見交《みかわ》した音絵は驚きふるえつつ次の間に退いた。
あとを見送った武丸は真面目な表情になった。仏前に茶碗を直し、畳の濡れたところをハンケチで拭いて尺八を取り出し、秘曲中の秘曲「雪」を吹き初めた。その調子はいつもとまるで違って美しく清らかであった。
音絵は襖《ふすま》の間からそっとのぞいて見た。
尺八に金文字で「玉山」と書いてあった。
音絵はハッと袖を顔に当てた。声を忍んで泣いた。泣きながら耳を傾けた。
―― 9 ――
武丸はこの時限り姿を見せなくなった。
音絵は鬱々と暮した。
養策は腕を組んで考えた。
―― 10[#「10」は縦中横] ――
歌寿は喘息が落ち付いたので、見舞いに来た音絵に秘曲の「雪」を教え初めたが間もなく中止した。「だれにこの秘曲をお習いになりましたか」とすこし顔色をかえてきいた。
音絵はハッとしたが「誰れにも習いませぬ」と云い切った。
歌寿は急《せ》きこんだ。「今の位取《くらいど》りは初めてとは思われませぬ」と押し返して詰《なじ》り問うた。
音絵はどうしても「習いませぬ」と云い張って急に泣き伏してしまった。
歌寿は慌てて詫びたりいたわったりしたが音絵はなかなか泣き止まなかった。歌寿はとうとうもてあましてしまって、稽古を延ばして音絵を帰らせた。
名器「玉山」を盗まれた哲也は茫然と歌寿の家にやって来てたが帰って行く音絵の姿を見ると、歌寿に「音絵を取り持ってくれ」と頼み入った。
歌寿は「ともかくもお嬢さんのお心をきいてみましょう」と逃げた。
哲也は更に「雪」を教えてくれとせがんだ。
歌寿は不承不承に教え初めたが又中止して「玉山はどうなさいましたか」と尋ねた。
哲也は青眼鏡の賊に盗まれたと答えた。
歌寿は嘆息して涙を流した。あの竹でなくて「雪」の趣は吹けないと云った。
表で立ち聞きをしていた音絵はホッとため息をして去った。
哲也は失望して帰った。
「尺八の名器玉山を発見したものには金一千円を与える」という広告が間もなく赤島家の名で新聞に掲載された。
―― 11[#「11」は縦中横] ――
その夜養策が外出の留守中、音絵は独《ひとり》で「雪」を弾いていた。
すると誰とも知れず表を尺八で合せて行くものがあった。
音絵は琴を弾きさしたまま表に駈け出したがもうそれらしい人影はなかった。音絵はしおしおと家に這入った。
物蔭から竹林武丸が現れて、音絵の落した琴の爪を拾い、軒燈《けんとう》の光りに照して「歌寿」という文字を見るとハッと驚いてあたりを見まわした。押し頂いて懐中して去った。
音絵はそれから琴を弾かなくなった。何故となく床に就き養策は限りなく心配した。
―― 12[#「12」は縦中横] ――
或る夜歌寿の家に忍び込んで、歌寿の枕元に札の束の包みを置いて行ったものがあった。歌寿は不審がった。夜になると僅かな音にも眼を覚ました。それでも、その後度々の金包《かねづつみ》が彼女の枕元に置かれた。歌寿はその金に少しも手を附けずに寝床の下に隠した。
―― 13[#「13」は縦中横] ――
月の冴え渡った冬の深夜であった。
音絵の住む家から一町ばかりのとある四辻に一台の自動車が止まった。中から和服の紳士風の竹林武丸が現れて音絵の家に近寄り、尺八を取り出して「残月」を吹き始めた。
しかし音絵は出て来なかった。
武丸は尺八を仕舞《しま》って塀を乗り越えて、音絵の寝室に忍び入った。
音絵と看護婦は熟睡していた。その枕元に睡眠薬と手筥《てばこ》があった。
武丸は懐中から手紙を取り出して手筥に入れようとすると、中から琴の爪筥《つめばこ》と「青眼鏡の賊」の記事を載せた新聞の切れ端《はし》が出て来た。
武丸はハッと驚いた。あたりを見廻して腕を組んで考えたが何か二三度うなずいて手紙を仕舞い、懐中から魔睡剤を取り出して二人の女に嗅がせ初めた。
―― 14[#「14」は縦中横] ――
音絵は夢を見ていた……武丸と連れ立って雪の中を果てしもなくさまようていた……がふと気が付くと自動車の中で、武丸に抱かれて知らぬ野道を走っていた。
これはと驚く音絵を武丸は押し鎮めた。
青い眼鏡を見た音絵は一切を覚った。武丸の膝に泣き伏した。
武丸はその背《せな》を撫でて「何事も因縁です。因縁は運命よりも何よりも貴いものです」と云った。
音絵は泣きながらうなずいた。
武丸は盗んで来た音絵の晴れ着と化粧道具でその姿を改めさせ、自分は老人に変装した。
―― 15[#「15」は縦中横] ――
自動車は鶴屋という温泉宿に着いた。
武丸は運転手に「オトエハタケマルトトモニブジ」と書いた電報を渡して「帰って夜が明けたらすぐに打て」と命じて多額の口止め金を与えた。
宿屋にも充分の心付けをして「当分娘と共に厄介になるから」と最上等の室《へや》へ案内させた。
室に通ると音絵は武丸に「又父に会われましょうか」と問うた。
武丸は自分の胸を打って事もなげに微笑した。
音絵は元気が出て久し振り湯に入った。
―― 16[#「16」は縦中横] ――
音絵の家は大騒ぎになった。狂気のような養策、泣き伏す看護婦、警察の人々、親類縁者、近所の人々、診察に来る患者などがゴッタ返した。
戸塚警部は音絵の手筥に秘められた琴の爪が一つ足りない事と、その下に敷いてある新聞に「青眼鏡の賊」の記事が載っている事を発見して腕を組んだ。それから間もなく家の外まわりの土塀の蔭に落ちている紙包みを拾って見ると、中から不足している琴の爪を発見した。手筥の指紋、賊の足跡等が次から次へ調べられた。
戸塚警部は養策に琴の爪を示して一つ離れている理由《わけ》を問うた。
養策は空しく頭を振った。
戸塚警部は歌寿を訪うて同じように琴の爪を示した。
歌寿は渡された爪を手で探って見て「これは私がお嬢様に差し上げたもの」と云った。
戸塚警部はうなずいた。「それではそのお嬢様に秘密の愛人がある事を聴かなかったか」ときいた。
歌寿は屹《きっ》となった。「隠し男を持つようなお嬢様ではありません」と云った。
戸塚警部は首をひねって去った。
その立ち去る足音を聞き澄ました歌寿は裏表の戸締りを厳重にして、寝床の下から札の束の包みを出し火鉢に入れて焼き初めた。涙が止め度なく流れた。
歌寿の弟子で養策の治療を受けている一人の男が、音絵の失踪を知らせに来たが、表戸が閉まって中から煙が洩れて来るのでいよいよ驚いて表戸をたたき離して飛び込んで来た。
見ると火鉢の中で札の束が燻《くすぶ》っているので仰天して、抓《つま》み出そうとして焼けどをした。
歌寿は烈しく咽《むせ》び入った。
―― 17[#「17」は縦中横] ――
温泉宿鶴屋を出た自動車の運転手は帰る途中で泥酔して人を轢《ひ》いた。警察に引っぱられて調べられると一切を白状して武丸からことづかった電報を見せた。
戸塚警部とその部下を載せた自動車が間もなく警察の門を出た。雪を衝《つ》いて暁の野をヒタ走りに鶴屋の門前に乗り付けた。武丸と音絵はしかしもう居なかった。
戸塚警部はすぐにそこの警察に駈け付けて助力を乞い、二手に別れて雪の国道に自動車を馳せた。
戸塚警部の自動車は山道にかかった。
はるかの岨道《ほそみち》を乞食|体《てい》の盲目《めくら》の男と手引《てびき》女が行くのが見えた。自動車は追い迫った。
乞食夫婦が道の傍《かたわら》に避けると自動車はピタリと止った。中から戸塚警部が現われて乞食男の青い眼鏡を奪った。
二人は睨み合った。
女のうしろから近寄った一人の刑事が、女を不意に雪の中に引きずりたおした。
男は唇を噛んだ。突然懐中から拳銃《ピストル》を出して一発の下に女を射ちたおした。自分も自殺しようとした。
戸塚警部はその拳銃《ピストル》をたたき落して組み付いた。
男は警部を投げ付けておいて崖の上から身を躍らした。
戸塚警部が崖の下に駈け付けた時にはもう人影はなかった。しかし草の葉に数滴の血のしたたりと、雪の上を林の奥へ続いた足跡が残っていた。
戸塚警部はあとを逐《お》うた。
―― 18[#「18」は縦中横] ――
その夜頭に繃帯をした武丸は歌寿の家の前に立って「鶴の巣籠《すごも》り」を吹いた。
歌寿は病の床から起き上って戸を開いた。
武丸は転がるように中に這入ってあとを閉し「お母さん」と縋《すが》り付いた。
歌寿は泣き且つ怒った。「勘当をされても手癖がなおらぬ上に大恩ある家のお嬢様を盗むは何事だ」と責めた。
「どうしてそれを御存じ!」と武丸は驚いた。
「知らいでなるものか。お嬢様をかえせ」と歌寿は責めた。
武丸はひれ伏して泣きに泣いた。
そこへ大勢の警官が踏み込んだ。
武丸は巧みに逃れた。
歌寿は失神したまま息を引き取った。
―― 19[#「19」は縦中横] ――
糸川家に音絵の屍体が到着した。
養策はその屍体を見ると泣き倒おれて、奥の一室に連れ込まれた。人々は慰めかねた。
僧侶が来て読経したあと悲しい通夜が行われた。哲也も音絵の相弟子として列席した。
夜更けて幌《ほろ》を深く下《たら》した人力車が玄関に着いた。中から羽織袴の竹林武丸が威儀正しく現われて、案内なしに座敷に通り一同に会釈《えしゃく》して霊前に近付き、礼拝を遂げて香を焚き、懐中から名器「玉山」を取り出して「罌子《けし》の花」を吹奏し初めた。
通夜の人々は初
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