ます……
当店で最上の質のいいダイヤで御座いまして……
憲作は内ポケットから大きな金入れを出して百円札を念入りに勘定して久四郎に渡した。代りにサックに入れた指環を受け取った。
久四郎は札を勘定し初めた。途中でちょっと躊躇して眼を伏せたが又初めから静かに勘定し初めた。
憲作はサックに入れた指環を一度あらためて、サックの上から新しい半巾《ハンケチ》で包んで恭《うやうや》しく徳市に渡した。
徳市は夢のように受け取った。そのままポケットに仕舞った。
久四郎は別室でお茶を差し上げたいからと云って二人を案内した。
憲作は急ぐからと断りながら札の残りを調べ終ると久四郎が止めるのもきかずに店を出た。表の自動車に乗って去った。
徳市も帰ろうとするのを久四郎は無理に止めた。
つまらぬものですが……
お土産に差し上げたいものが御座いますので……
是非お持ち帰りを……
どうぞこちらへ……
―― 7 ――
徳市は無理やりに応接間のような処へ連れ込まれた。
久四郎は出て行った。
給仕女が這入って来て徳市の前に珈琲《コーヒー》を置いて去った。
久四郎は最前の札を持って急いで這入《はいっ》て来た。
まことに恐れ入りますが……
只今の指環を今一度チョト拝見さして頂きとう御座います……
余計に頂いておりますようですから……
徳市はサックを渡した。
久四郎は受け取ってハンケチを解き初めた。非常に固く結んであるのを解いてサックを開くと空《から》であった。
徳市はビックリして立ち上った。
久四郎は素早く室《へや》から飛び出してあとをピッタリと締めて鍵をかけた。
徳市は狼狽して中から大声を揚げた。扉を動かしたがビクともしなかった。床の上にペタリと坐った。頭を抱えた。
久四郎と私服巡査が扉を開いて這入って来た。眼の前に徳市が坐っているので驚いて後退《あとじさ》りをした。
久四郎は私服巡査に札《さつ》を見せた。
この通り贋《に》せもので……
この男が共犯なので……
徳市は縮こまった。
私服巡査は徳市の両手を捉えて手錠をかけた。
立て……
徳市は老人のように頭を下げて腰をかがめて歩き出した。
外へ出ると私服巡査は徳市を突き飛ばした。
こっちだ……
―― 8 ――
徳市は警察に来るとすっかり酔いが醒めた。
警視と警部と私服巡査の三人が徳市を取り巻いた。
王冠堂の番頭久四郎は証人として傍《そば》に居た。
警部がボロボロの十円札と受取証と指環のサックを突き付けて徳市を訊問した。
徳市はメソメソ泣きながらも何もかも白状した。
津島商会は……
金杉橋《かなすぎばし》停留場の近くです……
警官連は顔を見合わせた。
警視は呼鈴《よびりん》を押して一人の警部と三人の私服巡査を呼んで何事か命令を下した。
四人の警官は自動車に乗って去った。
徳市はそのまま留置所に入れられた。
番頭久四郎は一枚の名刺を出して警部に渡した。
これは主人の名刺で御座います……
失礼で御座いますが代理としてお願い致します……
実は店の信用に拘《かか》わりますので……
どうぞなるべく秘密に一ツ……
警視はうなずいた。
久四郎は一同に叮嚀にお辞儀をして去った。
人夫頭の吉が入れ代って這入って来た。警視に名刺を出してお辞儀をしながら汗を拭いた。
私服巡査が留置所の中の徳市に会わせた。
吉はなまけものの徳市に相違ないと保証した。徳市に向って忌々《いまいま》しげに云った。
飛んだ肝《きも》を潰させやがる……
貴様みたいな奴はもう雇わない……
こう云い棄てると吉は警官に一礼して去った。
警部と私服巡査三名の一行が手を空しくして帰って来た。警官一同呆れた顔を見合わせた。
―― 9 ――
徳市は十円の紙幣を下渡《さげわた》されて拘留所を出た。汚《よご》れた紳士姿のままボンヤリと当てもなくうなだれて歩き出した。長い事歩いて後《のち》静かな通りへ来た。
ドン――……
徳市は吃驚《びっくり》して頭《かしら》を上げた。空《す》いた腹を撫でまわしてあたりを見まわした。眼の前に立派な家が立っていた。何気なくその表札を見た。
┌───────────┐
│ 下六、一九 ホシノ │
└───────────┘
徳市は急にシャンとなった。ポケットに手を入れて十円札を引き出した。ボロボロになった表裏をあらためて又ポケットに入れた。キョロキョロとして早足に歩き出した。
徳市はそれからとある洋品店に這入って大きなブラシを一つ買って釣銭を貰った。表へ出てホッと一息した。そのブラシを持って手近い横路地へ這入って帽子、上衣、ズボン、靴まで綺麗に払った。ブラシを尻のポケットに仕舞《しま》って揚々と往来へ出た。
次に向うの活版屋に這入って名刺を注文して前金を払った。その次には安洋食店に這入って酒を飲みながら鱈腹《たらふく》詰め込んだ。その払い残り五円で花束を買って、往来の靴|繕《つくろ》いを見付けて靴を磨かせた。最後に活版屋へ行って名刺を受取った。
―― 10[#「10」は縦中横] ――
徳市は星野家を訪うて名刺を出した。
ハイカラな女中が出て来て奥へ取り次いだがやがて引返して来て応接間に案内した。
徳市は応接間に這入るとポケットから葉巻を出して吹かし初めた。
星野智恵子はさも嬉し気に這入って来た。貴婦人も這入って来て挨拶をした。
私は智恵子の母時子と申します……
この間は何とも……
まことに……
徳市は苦笑しながら礼を返した。謹んで花束を智恵子に捧げた。
智恵子の眼は感謝に輝やいた。
母子《おやこ》は茶や菓子を出して徳市をもてなした上、近いうちに智恵子が出演する歌劇の切符を二枚徳市に与えた。
智恵子は意味あり気な眼付きをして云った。
もう一枚の方は……
どうぞ奥様に……
徳市はハッと顔を撫でて苦笑した。
ヤ……
私は……
まだ独身で……
智恵子もハッと半巾《ハンケチ》で口を蔽いながらあやまった。
マ……
どうも失礼を……
徳市は高らかに笑った。
智恵子も極《き》まり悪げに笑った。
時子が傍《かたわら》から取りなした。
ではお友達にでも……
徳市は急に真面目になって暇《いとま》を告げた。
智恵子と時子は名残《なごり》を惜しんだ。
徳市は二枚の切符を懐中にして逃げるように星野家を出た。
―― 11[#「11」は縦中横] ――
徳市は星野家を出ると又行く先がなくなった。懐中には唯帝劇の切符が二枚ある切りであった。スッカリ悄気《しょげ》てとある横町を通りかかった。
労働者の風をした男が徳市に近付いて肩に手をかけた。
徳市は立ち止まってふり返ると、変装した浪越憲作を認めてハッとよろめいた。
憲作はニヤリとして口に指を当てた。眼くばせをして先に立った。
徳市はうなだれ[#「うなだれ」に傍点]てついて行った。
二人はやがて丸の内の山勘横町《やまかんよこちょう》へ来た。事務所|様《よう》の扉を押して憲作はふり返った。
徳市は躊躇しいしいあとから這入って行った。
憲作は暗い階段をいくつも上った。天井裏のような処まで来ると、そこにある安ストーブの前に椅子を二つ持って来て並べながら徳市にストーブを焚《た》けと命じた。
徳市は面《おもて》を膨らした。
憲作は睨み付けた。
徳市は渋々シャベルを執《と》って壁際に散らばっている石炭を掻き集めた。
憲作はニヤニヤと笑った。
徳市はストーブに火を入れてよごれたハンケチで拭いた。
憲作は近寄って徳市のポケットの中から二枚の切符と名刺の箱を引き出した。
徳市は慌てて取り返そうとした。
憲作は手を引こめながら切符を見るとニヤリと笑って一枚を徳市に返した。徳市に椅子を進めて自分も向い合いに腰をかけた。
徳市はしょげ返って腰をおろした。
憲作は徳市の名刺を見た。
┌──────┐
│ 足達徳市 │
└──────┘
憲作は名刺の箱を徳市に返しながら肩をたたいた。
とうとう貴様も悪党になったな……
しかも凄い腕じゃないか……
徳市は小さくなってうなだれた。
憲作はそり返って笑った。
アッハッハッハ……色男……
まあそう屁古垂《へこた》れるな……
おれが力になってやる……
あの娘と夫婦《いっしょ》にしてやる……
徳市は頭を擡《もた》げて恨めし気に憲作を睨んだ。
憲作は睨み返した。ポケットから大きな黒いピストルを出して見せた。徳市の顔に自分の顔を寄せて云った。
その代り……
嫌だと云えあ……
これだぞ……
徳市は又うなだれ[#「うなだれ」に傍点]た。ブルブルと顫《ふる》えた。眼から涙を一しずく落した。
憲作はジッと徳市の様子を見てうなずいた。ピストルを引っこめて代りに札の束を出した。儼然《げんぜん》として云った。
心配するな……
サアこれを遣る……
この金でおれの指図通りに仕事をしろ……
でないともう智恵子に会えないぞ……
徳市は手を引っこめて小さくなった。
憲作は右手にピストル左手に札の束をさし付けてニヤリニヤリと笑った。
―― 12[#「12」は縦中横] ――
帝劇のステージで智恵子は大喝采の中に持ち役をつとめ終った。
徳市はフロックコートに絹帽《シルクハット》を冠って花束を持って楽屋に待っていた。
智恵子は母時子の手に縋《すが》って這入って来た。徳市の花束を受けると涙ぐましい程喜んで母に見せた。
徳市は智恵子|母子《おやこ》に立派な服装をした老紳士を紹介した。
私の叔父です……
足達|万平《まんぺい》と申します……
父同様のもので……
万平は鷹揚な態度で名刺をさし出しながら、
お近付きに……
お茶を一ツ……
お差し支えなければ……
と二階の食堂の方を指した。
智恵子母子は感激に満ちたお辞儀をした。
―― 13[#「13」は縦中横] ――
四人の席は帝劇の食堂で注目の焦点となった。
王冠堂の番頭久四郎は友達二人とはるか向うの席でビールを飲んでいたが、四人の姿を見ると驚いてフォックを取り落した。
友達は怪しんで理由《わけ》を尋ねた。
久四郎は顔をじっと伏せて友達の顔を見まわした。苦笑しながら唇に手を当てた。
智恵子|等《ら》四人は立ち上った。
万平は徳市に眼くばせをした。智恵子|母子《おやこ》に向い叮嚀に一礼して別れを告げた。
徳市は不満そうな顔をして頭《かしら》を下げた。
智恵子母子は二人を引き止めた。
まあこのままでは……
是非宅まで……
何も御座いませんけど……
お忙しいところ恐れ入りますけど……
万平は徳市に眼くばせ[#「くばせ」に傍点]しながら一二度辞退した。
徳市はワナワナきょろきょろした。
万平はとうとう承知した。
三人は喜んだ。万平を取り巻いて自動車に乗り込んだ。
二三名の紳士が智恵子のあとを見送って眼を丸くし合った。
凄い腕だな……
驚いた……
あの男嫌いが……
―― 14[#「14」は縦中横] ――
万平と徳市は星野家で晩餐の御馳走になった。
万平は帰りともながる徳市を引立てるようにして暇《いとま》を告げた。
―― 15[#「15」は縦中横] ――
徳市は単身背広姿で星野家を訪れた。
智恵子|母子《おやこ》は引き止めてなれなれしくもてなした。
徳市は盛んに母子の機嫌を取った。すっかり母子と打ち解けてしまった。
母親の時子は徳市を深く信用したらしく真面目な内輪《うちわ》の話を初めた。
徳市は勿体ぶって軽くうなずきながら聞いた。幾度かあくびを噛み殺した。
時子は熱心に話を進めて最後に云った。
今手許にある株券を……
三万円
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