醒めた。
警視と警部と私服巡査の三人が徳市を取り巻いた。
王冠堂の番頭久四郎は証人として傍《そば》に居た。
警部がボロボロの十円札と受取証と指環のサックを突き付けて徳市を訊問した。
徳市はメソメソ泣きながらも何もかも白状した。
津島商会は……
金杉橋《かなすぎばし》停留場の近くです……
警官連は顔を見合わせた。
警視は呼鈴《よびりん》を押して一人の警部と三人の私服巡査を呼んで何事か命令を下した。
四人の警官は自動車に乗って去った。
徳市はそのまま留置所に入れられた。
番頭久四郎は一枚の名刺を出して警部に渡した。
これは主人の名刺で御座います……
失礼で御座いますが代理としてお願い致します……
実は店の信用に拘《かか》わりますので……
どうぞなるべく秘密に一ツ……
警視はうなずいた。
久四郎は一同に叮嚀にお辞儀をして去った。
人夫頭の吉が入れ代って這入って来た。警視に名刺を出してお辞儀をしながら汗を拭いた。
私服巡査が留置所の中の徳市に会わせた。
吉はなまけものの徳市に相違ないと保証した。徳市に向って忌々《いまいま》しげに云った。
飛んだ肝《きも》を潰させやがる……
貴様みたいな奴はもう雇わない……
こう云い棄てると吉は警官に一礼して去った。
警部と私服巡査三名の一行が手を空しくして帰って来た。警官一同呆れた顔を見合わせた。
―― 9 ――
徳市は十円の紙幣を下渡《さげわた》されて拘留所を出た。汚《よご》れた紳士姿のままボンヤリと当てもなくうなだれて歩き出した。長い事歩いて後《のち》静かな通りへ来た。
ドン――……
徳市は吃驚《びっくり》して頭《かしら》を上げた。空《す》いた腹を撫でまわしてあたりを見まわした。眼の前に立派な家が立っていた。何気なくその表札を見た。
┌───────────┐
│ 下六、一九 ホシノ │
└───────────┘
徳市は急にシャンとなった。ポケットに手を入れて十円札を引き出した。ボロボロになった表裏をあらためて又ポケットに入れた。キョロキョロとして早足に歩き出した。
徳市はそれからとある洋品店に這入って大きなブラシを一つ買って釣銭を貰った。表へ出てホッと一息した。そのブラシを持って手近い横路地へ這入って帽子、上衣、ズボン、靴まで綺麗に払った。ブラシを尻のポケットに仕舞《しま》って揚々と往来へ出た。
次に向うの活版屋に這入って名刺を注文して前金を払った。その次には安洋食店に這入って酒を飲みながら鱈腹《たらふく》詰め込んだ。その払い残り五円で花束を買って、往来の靴|繕《つくろ》いを見付けて靴を磨かせた。最後に活版屋へ行って名刺を受取った。
―― 10[#「10」は縦中横] ――
徳市は星野家を訪うて名刺を出した。
ハイカラな女中が出て来て奥へ取り次いだがやがて引返して来て応接間に案内した。
徳市は応接間に這入るとポケットから葉巻を出して吹かし初めた。
星野智恵子はさも嬉し気に這入って来た。貴婦人も這入って来て挨拶をした。
私は智恵子の母時子と申します……
この間は何とも……
まことに……
徳市は苦笑しながら礼を返した。謹んで花束を智恵子に捧げた。
智恵子の眼は感謝に輝やいた。
母子《おやこ》は茶や菓子を出して徳市をもてなした上、近いうちに智恵子が出演する歌劇の切符を二枚徳市に与えた。
智恵子は意味あり気な眼付きをして云った。
もう一枚の方は……
どうぞ奥様に……
徳市はハッと顔を撫でて苦笑した。
ヤ……
私は……
まだ独身で……
智恵子もハッと半巾《ハンケチ》で口を蔽いながらあやまった。
マ……
どうも失礼を……
徳市は高らかに笑った。
智恵子も極《き》まり悪げに笑った。
時子が傍《かたわら》から取りなした。
ではお友達にでも……
徳市は急に真面目になって暇《いとま》を告げた。
智恵子と時子は名残《なごり》を惜しんだ。
徳市は二枚の切符を懐中にして逃げるように星野家を出た。
―― 11[#「11」は縦中横] ――
徳市は星野家を出ると又行く先がなくなった。懐中には唯帝劇の切符が二枚ある切りであった。スッカリ悄気《しょげ》てとある横町を通りかかった。
労働者の風をした男が徳市に近付いて肩に手をかけた。
徳市は立ち止まってふり返ると、変装した浪越憲作を認めてハッとよろめいた。
憲作はニヤリとして口に指を当てた。眼くばせをして先に立った。
徳市はうなだれ[#「うなだれ」に傍点]てついて行った。
二人はやがて丸の内の山勘横町《やまかんよこちょう》へ来た。事務所|様《よう》の扉を押して憲作はふり返った
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