した。ますます叮嚀に云った。
何でもないんです……
今夜十二時迄僕の云う通りになるのです……
御承知なら唯今十円差し上げます……
成功すれば百円差し上げるという証文を添えて……
どうです……
徳市はすっかり酔ってしまった。ワクワクフラフラしながらうなずいた。
紳士はポケットからボロボロの十円札を一枚と証文のようなものを出して徳市の前に置いた。
徳市は受け取って証文の署名を見た。
――浪越憲作《なみこしけんさく》――
紳士――憲作は念を押すように云った。
よろしいですね……
徳市はうなずいて証文と十円札を懐に仕舞った。すぐにコップに手をかけた。
憲作はニコニコして酌をしながら半分真面目に云った。
人間は働らかねば駄目です……
徳市は眼をつむってグ――ッと飲み干した。
憲作は呼鈴《よびりん》を鳴らした。
美人が出て来た。
二人は眼くばせをし合って徳市を奥へ案内した。
―― 5 ――
徳市は酔った眼であたりを見まわした。美事な洗面台や化粧台、バスなぞが眼に付いた。
憲作と美人はヨロヨロする徳市を捕まえて腰を掛けさせた。
徳市はフラフラ眠り初めた。
憲作は徳市の頭を鋏《はさみ》でハイカラに苅り上げた。
美人は徳市の髭《ひげ》と襟《えり》を綺麗に剃った。
二人していつの間にかねむっている徳市をゆり起し、顔や手足を洗わせ、着物を脱がせて身体を拭い上げ、美事な背広や中折や靴やオーバーを与えて立派な紳士に作り上げた。そうして二階へ連れ上げた。
徳市はやっと眼をさました。そこは立派な居間で真中の机に洋食弁当の出前が二つと西洋酒の瓶が二三本並んでいた。
憲作は美人を徳市に紹介した。
僕の家内の美津子です……
徳市は夢に夢見るようにお辞儀をした。しきりに洋服の着工合を直した。しかし眼の前に御馳走を並べられると真剣に喰い付いた。
憲作と美津子は顔を見合わせて笑った。
―― 6 ――
憲作は徳市を連れて二三町往来を歩いた。
徳市は酔って満腹して紳士になって夢心地でついて行った。
憲作は辻待《つじまち》自動車を呼んで二人で乗って、東京第一の宝石店王冠堂へ来た。自動車を表に待たしたまま中に這入った。
憲作は入口の処で徳市に云った。
何でも黙って……
うなずいているのですよ……
徳市はわけもなくうなずいた。
憲作は帳場の方へ行った。
徳市は店の鏡にうつった自分の姿を見てハタと立ち止まった。……素晴しい若紳士……日に焼けた……骨格の逞ましい堂々たる最新流行……
憲作は番頭の久四郎《きゅうしろう》に名刺を出して叮嚀にお辞儀をした。
私は横浜の足立家の者ですが……
若様の御婚約の品を……
ダイヤの指環《ゆびわ》か何か……
憲作は言葉の中に徳市を指《ゆびさ》した。
番頭の久四郎はチラリと徳市の様子を見た。
徳市は大鏡の前に立って慣れた手附きでネクタイを締め直していた。
番頭久四郎は名刺を見た。
――足立商会会計主任 大島鹿太郎――
久四郎は揉み手をしながら品物を取りに行った。
徳市がネクタイを締直すと間もなく、鏡の奥に見える入口の硝子扉《ガラスど》が開いて母親らしい貴婦人に連れられた令嬢が這入って来たのが見えた。その令嬢は和装で女優かと見える派手好みであった。徳市はふり返って恍惚《こうこつ》となった。
憲作が徳市の前に来てヒョコリとお辞儀をした。
若様……
一寸《ちょっと》品物を御覧遊ばして……
徳市は気の向かぬげに帳場の方へ連れて行かれた。
憲作はそこに拡げられたダイヤ入りの指環のケースをあれかこれかと撰《よ》って見せた。
徳市は上《うわ》の空《そら》で唯うなずいてばかりいた。
令嬢が近附いて来て徳市の前に拡げられた指環のケースを見た。その中の一つを欲しそうにした。
憲作は最大のダイヤを撰り出して徳市にさし付けた。
令嬢の眼はそのダイヤに注いだ。怪しく光った。
徳市は憲作の手からその指環を取り上げてもとの通りケースに納めた。令嬢の前に押し進めた。
どうぞお撰り下さい……
私共はあとで宜《よろ》しゅう御座います……
憲作と久四郎は妙な顔をした。
貴婦人と令嬢は云い知れぬ感謝の眼付きをした。
令嬢は恥じらいながら辞退した。
まあ……
どうぞお構いなく……
あの……
貴婦人も感謝に満ちた表情で云った。
ま……
恐れ入ります……
イイエ……どう致しまして……
徳市は幾度も手を振った。
私のは贈り物にするのですから……
ちっとも構いません……
さあどうぞ……
憲作と久四郎は別々に苦笑しながら三人の様子を見ていた。
令嬢は辞退しかねた。嬌態を作っ
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