を見交《みかわ》した音絵は驚きふるえつつ次の間に退いた。
 あとを見送った武丸は真面目な表情になった。仏前に茶碗を直し、畳の濡れたところをハンケチで拭いて尺八を取り出し、秘曲中の秘曲「雪」を吹き初めた。その調子はいつもとまるで違って美しく清らかであった。
 音絵は襖《ふすま》の間からそっとのぞいて見た。
 尺八に金文字で「玉山」と書いてあった。
 音絵はハッと袖を顔に当てた。声を忍んで泣いた。泣きながら耳を傾けた。

     ―― 9 ――

 武丸はこの時限り姿を見せなくなった。
 音絵は鬱々と暮した。
 養策は腕を組んで考えた。

     ―― 10[#「10」は縦中横] ――

 歌寿は喘息が落ち付いたので、見舞いに来た音絵に秘曲の「雪」を教え初めたが間もなく中止した。「だれにこの秘曲をお習いになりましたか」とすこし顔色をかえてきいた。
 音絵はハッとしたが「誰れにも習いませぬ」と云い切った。
 歌寿は急《せ》きこんだ。「今の位取《くらいど》りは初めてとは思われませぬ」と押し返して詰《なじ》り問うた。
 音絵はどうしても「習いませぬ」と云い張って急に泣き伏してしまった。
 歌寿は慌てて詫びたりいたわったりしたが音絵はなかなか泣き止まなかった。歌寿はとうとうもてあましてしまって、稽古を延ばして音絵を帰らせた。
 名器「玉山」を盗まれた哲也は茫然と歌寿の家にやって来てたが帰って行く音絵の姿を見ると、歌寿に「音絵を取り持ってくれ」と頼み入った。
 歌寿は「ともかくもお嬢さんのお心をきいてみましょう」と逃げた。
 哲也は更に「雪」を教えてくれとせがんだ。
 歌寿は不承不承に教え初めたが又中止して「玉山はどうなさいましたか」と尋ねた。
 哲也は青眼鏡の賊に盗まれたと答えた。
 歌寿は嘆息して涙を流した。あの竹でなくて「雪」の趣は吹けないと云った。
 表で立ち聞きをしていた音絵はホッとため息をして去った。
 哲也は失望して帰った。
「尺八の名器玉山を発見したものには金一千円を与える」という広告が間もなく赤島家の名で新聞に掲載された。

     ―― 11[#「11」は縦中横] ――

 その夜養策が外出の留守中、音絵は独《ひとり》で「雪」を弾いていた。
 すると誰とも知れず表を尺八で合せて行くものがあった。
 音絵は琴を弾きさしたまま表に駈け出したがもうそれらしい人
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