影はなかった。音絵はしおしおと家に這入った。
物蔭から竹林武丸が現れて、音絵の落した琴の爪を拾い、軒燈《けんとう》の光りに照して「歌寿」という文字を見るとハッと驚いてあたりを見まわした。押し頂いて懐中して去った。
音絵はそれから琴を弾かなくなった。何故となく床に就き養策は限りなく心配した。
―― 12[#「12」は縦中横] ――
或る夜歌寿の家に忍び込んで、歌寿の枕元に札の束の包みを置いて行ったものがあった。歌寿は不審がった。夜になると僅かな音にも眼を覚ました。それでも、その後度々の金包《かねづつみ》が彼女の枕元に置かれた。歌寿はその金に少しも手を附けずに寝床の下に隠した。
―― 13[#「13」は縦中横] ――
月の冴え渡った冬の深夜であった。
音絵の住む家から一町ばかりのとある四辻に一台の自動車が止まった。中から和服の紳士風の竹林武丸が現れて音絵の家に近寄り、尺八を取り出して「残月」を吹き始めた。
しかし音絵は出て来なかった。
武丸は尺八を仕舞《しま》って塀を乗り越えて、音絵の寝室に忍び入った。
音絵と看護婦は熟睡していた。その枕元に睡眠薬と手筥《てばこ》があった。
武丸は懐中から手紙を取り出して手筥に入れようとすると、中から琴の爪筥《つめばこ》と「青眼鏡の賊」の記事を載せた新聞の切れ端《はし》が出て来た。
武丸はハッと驚いた。あたりを見廻して腕を組んで考えたが何か二三度うなずいて手紙を仕舞い、懐中から魔睡剤を取り出して二人の女に嗅がせ初めた。
―― 14[#「14」は縦中横] ――
音絵は夢を見ていた……武丸と連れ立って雪の中を果てしもなくさまようていた……がふと気が付くと自動車の中で、武丸に抱かれて知らぬ野道を走っていた。
これはと驚く音絵を武丸は押し鎮めた。
青い眼鏡を見た音絵は一切を覚った。武丸の膝に泣き伏した。
武丸はその背《せな》を撫でて「何事も因縁です。因縁は運命よりも何よりも貴いものです」と云った。
音絵は泣きながらうなずいた。
武丸は盗んで来た音絵の晴れ着と化粧道具でその姿を改めさせ、自分は老人に変装した。
―― 15[#「15」は縦中横] ――
自動車は鶴屋という温泉宿に着いた。
武丸は運転手に「オトエハタケマルトトモニブジ」と書いた電報を渡して「帰っ
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