に足踏みをしなくなったことも俺はチャンと知っている。それが今のところでは俺の一番の気がかりになっている。万一お前が、あの大学生に引かされてこの計劃を遣損《やりそこ》なうようなことがあったら、俺はあの大学生とお前を縛って、お前の家《うち》の裏庭の古井戸に生きながら投げ込む準備をしていることを忘れるな。
 お前のこれからの一生涯の幸福は、お前の財産全部を持って俺と一所《いっしょ》に外国に逃げることだ。その準備もちゃんと出来ていることを忘れるな。……お前の昔の夫より……根高弓子どの』……ほほほほほ……玲子さん!」
 いつの間にかほかのことばかり……中林先生のことばかり一心に考えていた玲子はビクッとして顔から手を離した。シャンデリアの下に美しく微笑んでいるマダム竜子の顔を見上げた。
「おまえこの手紙を通りがかりの人から言《こと》づかったの……」
 玲子は黙ってうなずいた。
「どんな人だったの……」
 母親の顔が今までに一度もないくらい優しい、柔和な、親切にみちみちた顔だったので、玲子は思わずホッとタメ息を吐《つ》いた。
「……あの……ルンペンみたいな人……」
「いくつぐらいの人だったの」
「…
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