すからね。早くおやすみなさい。明日《あした》は日曜ですからユックリと寝んねして、眼が醒めたら、あなたのお好きな中林先生の処へ遊びに行っていらっしゃい。……ね……そうして先生に今一度あなたに教えに来て下さるようにアナタから頼んでいらっしゃい。ね。ね。……さあさあ。それを楽しみにしてお寝《やす》みなさい。寝間着一つで風邪を引きますよ。サアサア。もう何も心配なことはないのですから……」
 玲子は思いがけなく変った母親の、親切この上もない態度に絆《ほだ》されたらしく、なおもシクシク泣き続けていたが、その中《うち》にヤットの思いで立上った。涙を拭き拭き、
「おやすみなさい」
 と言って顔を上げたが、その時にはもうマダム竜子は寝室に入ったらしく、入口のカーテンが微かに揺らぎ残っているだけであった。
 玲子はまた急に悲しくなりながら、サルーンの電燈を消して、ギシギシと鳴る階段を手探りの足探りにして三階の方へ上って行った。

 それから何分か、何十分か……ホンノちょっとばかり三階の寝床の中でウトウトしたと思ううちに突然、下の二階あたりから消魂《けたたま》しい物音が聞こえて来たので、玲子はフッと眼を見開いた。睡《ね》むいのを我慢しながらモウ青白く夜の明けている狭い梯子段を伝い降りて、母親の寝室のカーテンの中へ走り込んで行った。もしや……と胸を轟《とどろ》かしながら……母親を気づかいながら……。
 けれども玲子は寝室の中へ一歩を踏み入れかけると同時にハッと立止まった。寝室の中の光景を一目見ると、入口の柱に獅噛《しが》みついてガタガタと震え出したのであった。
 ツイ今しがたまでピンピンしていたマダムの竜子が、派手な寝間着のまま、寝台から床の上に引きずり卸《おろ》されて、髪を振り乱したまま仰向けさまの大の字になって横わっている。その左の胸に血だらけになった白鞘《しらざや》の匕首《あいくち》が一本、深々と刺さっている。その屍体の背中の下から黒い血がムルムルと流れ出して高価な露西亜《ロシア》絨氈の花模様の上を浸み込んでは流れ、流れては浸み込みして大きな花ビラのように拡がってゆく。
 そのほかには誰も居ない。
 玲子はもうハアハアと息を切らして眼が眩《くら》んだようになっていた。髪の毛が一本一本に逆立って、身体《からだ》中がガタガタと音を立てそうになるのをジッと我慢しながら、その惨死体がたしかに
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