に足踏みをしなくなったことも俺はチャンと知っている。それが今のところでは俺の一番の気がかりになっている。万一お前が、あの大学生に引かされてこの計劃を遣損《やりそこ》なうようなことがあったら、俺はあの大学生とお前を縛って、お前の家《うち》の裏庭の古井戸に生きながら投げ込む準備をしていることを忘れるな。
お前のこれからの一生涯の幸福は、お前の財産全部を持って俺と一所《いっしょ》に外国に逃げることだ。その準備もちゃんと出来ていることを忘れるな。……お前の昔の夫より……根高弓子どの』……ほほほほほ……玲子さん!」
いつの間にかほかのことばかり……中林先生のことばかり一心に考えていた玲子はビクッとして顔から手を離した。シャンデリアの下に美しく微笑んでいるマダム竜子の顔を見上げた。
「おまえこの手紙を通りがかりの人から言《こと》づかったの……」
玲子は黙ってうなずいた。
「どんな人だったの……」
母親の顔が今までに一度もないくらい優しい、柔和な、親切にみちみちた顔だったので、玲子は思わずホッとタメ息を吐《つ》いた。
「……あの……ルンペンみたいな人……」
「いくつぐらいの人だったの」
「……あの……よくわかりませんでしたけど、四十か五十くらいの髯《ひげ》をボオボオと生やした怖い顔の人……」
「ホホホホ。まあ呆れた人ねえ玲子さんは……あなたはねえ。きっと雑誌の小説ばかり読んでいるお蔭で、あたまが変テコになっていんのよ。だからコンナ手紙を貰うと、すぐに探偵小説みたいなことを考えて、夜中に起きたり何かして心配すんのよ」
「……………」
「この手紙はねえ。玲子さん。このごろ流行《はや》る幸運の手紙とおんなじに誰か物好きな人間がイタズラをするために出したものなのよ。その証拠にウチの大沢という名字がどこにも書いてないじゃないの。大抵のうちに当てはまるように書いてあるじゃないの。東京の郊外で主人が留守|勝《がち》で、奥さんが後妻で、娘があって、犬が飼ってある家《うち》だったら、そこいらにイクラでもある筈なんですからね。そんな家《うち》の娘にこの手紙をことづけて、中味を娘に知らしたら家庭悲劇を起させるくらい何でもないのですからね。そうしてその娘が本気に母親の悪いことを信じて、家《うち》を飛び出すか何かしたら、この手紙を出した悪戯《いたずら》の目的が達するのよ。この頃はソンナ悪戯を道楽に
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