それから後の奈良原到翁の経歴は世間の感情から非常に遠ざかっていたし、筆者も詳しくは聞いていないのであるが大略|左《さ》のような簡単なものであったらしい。
 明治二十年頃(?)福岡市|須崎《すさき》お台場《だいば》に在る須崎監獄の典獄(刑務所長)となり、妻帯後間もなく解職し、爾後、数年閑居、日清戦役後、台湾の巡査となって生蕃《せいばん》討伐に従事した。それから内地へ帰来後、夫人を喪い、数人の子女を親戚故旧に托し、独《ひとり》、福岡市外|千代町《ちよまち》役場に出仕していたが、その後辞職して自分の娘の婚嫁先である北海道、札幌、橋本某氏の農園の番人となり、閑日月を送る事十三年、大正元年、桂内閣の時、頭山満、杉山茂丸の依嘱を受けて憲政擁護運動のため九州に下り、玄洋社の二階に起居し、後《のち》、大正六七年頃、対州《たいしゅう》の親戚某氏の処で病死した。享年七十……幾歳であったか、実は筆者も詳しく知らない。
 その遺児の長男、奈良原|牛之介《うしのすけ》というのが又、親の血を受けていたらしい。天下無敵の快男児で、乱暴者ばかり扱い狃《な》れている内田良平、杉山茂丸も持て余した程の喧嘩の専門家であった
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