郎の乱、宮崎車之助の乱等が相次いで起り、相次いで潰滅し去った訳であるが、後から伝えられているところに依ると、これ等の諸先輩の挙兵が皆、鎮台と、警察に先手を打たれて一敗地に塗《まみ》れた原因は、皆奈良原少年の失策に起因していた。奈良原少年一流の急進的な激語が破鐘《われがね》のように大きいのでその家を取巻く密偵の耳に筒抜けに聞えたに違いないという事になった。それ以来「奈良原の奴は密議に加えられない」という事になって同志の人は事ある毎《ごと》に奈良原少年を敬遠したというのだから痛快である。しかも前記の乱の鎮定後明治政府に対して功績を挙ぐるに汲々たる県当局では、残酷にも健児社に居残っている少年連を悉《ことごと》く引捉《ひっとら》えて投獄した。一味徒党の名前を云えというので、年端《としは》も行かぬ連中に、夜となく昼となく極烈な拷問をかけたというのだから、呆れた位では追付かない話である。
その当時の事を後年の奈良原翁は筆者に追懐して聞かせた。
「現在(大正三年頃)玄洋社長をやっとる進藤喜平太は、その当時まあだ紅顔の美少年で、女のように静かな、温柔《おとな》しい男じゃったが、イザとなるとコレ位、底
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