だ。タッタ一人で呵然《かぜん》として大笑した。
「頭山が字を書く……アハハハ。頭山が字を書く。アハハ。頭山が書を頼まれる世の中になってはモウイカン、世の中はオシマイじゃワハハハハハハハ……」
 そこいらに遊んでいる子供等が皆、ビックリして家の中へ逃込んだ。

 奈良原翁が晴れの九州入をする時に、当時二十五か六で、文学青年から禅宗坊主に転向していたばかりの筆者は、思いがけなく到翁の侍従役を仰付《おおせつ》けられて、共々に新橋駅(今の汐留駅)に来た。翁は旧友から貰ったという竹製のカンカン帽に、手織|木綿縞《もめんじま》の羽織着流し、青竹の杖、素足に古い泥ダラケの桐下駄《きりげた》、筆者は五リン刈の坊主頭に略法衣《りゃくほうえ》、素足に新しい麻裏という扮装である。荷物も何も無い気楽さに直ぐに切符売場へ行って、博多までの二等切符を買って来ると、三等待合室の中央に立って待っている到翁が眼早く青切符を見咎《みとが》めてサッと顔色を変えた。
「それは中等の切符じゃないかな」
 その頃から十四五年|前《ぜん》までは二等の事を中等と云った。従って一等の白切符を上等と称し、三等の赤切符を下等と呼んだ。
「はい。昔の中等です。御老体にコタえると不可《いけ》ませんから……」
「馬鹿ッ」
 という大喝が下等待合室を、地雷火のように驚かした。
「馬鹿ッ。アンタは、まだ若いのに何という不心得な人かいな。吾々のような人間が、国家に何の功労があれば中等に乗るかいな。下等でも勿体ない位じゃ。戻いて来なさい。馬鹿ナッ」
 と云ううちに青竹の杖が、今にも筆者の坊主頭に飛んで来そうな身構えをした。……飛んでもない国士のお供を仰付けられた……と思い思い大勢の下等客の視線を浴びながら、買換えに出て行った時の、筆者の器量の悪かったこと……。
 それから予定の通り下等の急行列車に乗込むと、又驚いた。
 ちょうど二人分の席が空《す》いていたので、窓際の席を翁にすすめると翁は青竹の杖を突張って動かない。
「イヤイヤ。アンタ窓の処へ行きなさい。わしは年寄で、夜中に何度も小便に行かねばならぬけにウルサイ」
 どちらがウルサイのかわからない。云うがままに窓の前に席を取ると又々驚いた。
 筆者に尻を向けて、ドッコイショと中央の通路向きに腰を卸《おろ》した翁は、袂《たもと》から一本の新しい日本|蝋燭《ろうそく》を出して、マッチで火を点《つ》けた。何をするのかと思うと、その蝋涙《ろうるい》を中央の通路のマン中にポタポタと垂らしてシッカリとオッ立てた。驚いて見ているうちに、今度は腰から煤竹筒《すすだけづつ》の汚ない煙草入を出して、その蝋燭の火で美味《おいし》そうに何服も何服も刻煙草《きざみたばこ》を吸うのであったが、まだ発車していないので、荷物なんかを抱えて通抜けようとする奴なんかが在ると、翁が殺人狂じみた物凄い眼を上げて、ジロジロと睨むので、一人残らず引返して出て行く。痛快にも傍若無人にもお話にならない。見るに見かねた筆者が、
「マッチならコチラに在りますよ」
 と云ううちに煙草を吸い終った翁は、蝋燭の火を蝋涙と一緒に振切って、古新聞紙に包んで袂に入れた。蝋涙を引っかけられた向側の席の人が慌ててマントの袖《そで》を揉んでいたが、翁は見向きもしなかった。
「マッチや線香で吸うと煙草が美味《おい》しゅうない。燃え火で吸うのが一番|美味《おいし》いけになあ」
 奈良原翁の味覚が、そこまで発達している事に気附かなかった筆者は全く痛み入ってしまった。この塩梅《あんばい》では列車に放火して煙草を吸いかねないかも知れない。
「北海道の山奥で雪に埋れていると酒と煙草が楽しみでなあ。炉の火で吸う煙草の味は又格別じゃ。もっとも煙草は滅多に切れぬが酒はよく切れたので閉口した。万止むを得ん時には砂糖湯を飲んだなあ。アルコールも砂糖も化学で分析してみると同じ炭素じゃけになあ」
 筆者はイヨイヨ全く痛み入ってしまった。同時にそこまで考える程に苦しんだ翁が気の毒にもなった。

 国府津《こうづ》に着いてから正宗の瓶と、弁当を一個買って翁に献上すると、流石《さすが》に翁の機嫌が上等になって来た。同時に翁の地声がダンダン潤おいを帯びて来て、眼の光りが次第に爛々炯々《らんらんけいけい》と輝き出したので、向い合って坐っていた二人が気味が悪くなったらしい。箱根を越えない中《うち》にソコソコと荷物を片付けて、前部の車へ引移ってしまったので、翁は悠々と足を伸ばした。世の中は何が倖《しあわせ》になるかわからない。筆者もノウノウと両脚を踏伸ばして居ねむりの準備を整える事が出来た。その二人の脚の間へ翁が又、弁当箱の蓋にオッ立てた蝋燭の火を置いたので、筆者は又、油断が出来なくなった。
 翁は一服すると飯を喰い喰い語り出した。
「北海道の山の中
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