では冬になると仕様がないけに毎日毎日聖書を読んだものじゃが、良《え》え本じゃのう聖書は……アンタは読んだ事があるかの……」
「あります……馬太《マタイ》伝と約翰《ヨハネ》伝の初めの方ぐらいのものです」
「わしは全部、数十回読んだのう。今の若い者は皆、聖書を読むがええ。あれ位、面白い本はない」
「第一高等学校では百人居る中で恋愛小説を読む者が五十人、聖書を読む者が五人、仏教の本を読む者が二人、論語を読む者が一人居ればいい方だそうです」
「恋愛小説を読む奴は直ぐに実行するじゃろう。ところが聖書を読む奴で断食をする奴は一匹も居るまい」
「アハハ。それあそうです。ナカナカ貴方は通人ですなあ」
「ワシは通人じゃない。頭山や杉山はワシよりも遥かに通人じゃ。恋愛小説なぞいうものは見向きもせぬのに読んだ奴等が足下にも及ばぬ大通人じゃよ」
「アハハ。これあ驚いた」
「キリストは豪《えら》い奴じゃのう。あの腐敗、堕落したユダヤ人の中で、あれだけの思い切った事をズバリズバリ云いよったところが豪い。人|触《ふ》るれば人を斬り、馬|触《ふ》るれば馬を斬るじゃ、日本に生れても高山彦九郎ぐらいのネウチはある男じゃ」
「イエス様と彦九郎を一所《いっしょ》にしちゃ耶蘇《やそ》教信者が憤《おこ》りやしませんか」
「ナアニ。ソレ位のところじゃよ。彦九郎ぐらいの気概を持った奴が、猶太《ユダヤ》のような下等な国に生れれば基督《キリスト》以上に高潔な修業が出来るかも知れん。日本は国体が立派じゃけに、よほど豪い奴でないと光らん」
「そんなもんですかねえ」
「そうとも……日本の基督教は皆間違うとる。どんな宗教でも日本の国体に捲込まれると去勢されるらしい。愛とか何とか云うて睾丸《きんたま》の無いような奴が大勢寄集まって、涙をボロボロこぼしおるが、本家の耶蘇はチャンと睾丸《きんたま》を持っておった。猶太でも羅馬《ロウマ》でも屁とも思わぬ爆弾演説を平気で遣《やり》つづけて来たのじゃから恐らく世界一、喧嘩腰の強い男じゃろう。日本の耶蘇教信者は殴られても泣笑いをしてペコペコしている。まるで宿引きか男めかけのような奴ばっかりじゃ。耶蘇教は日本まで渡って来るうちに印度《インド》洋かどこかで睾丸《きんたま》を落いて来たらしいな」
「アハハハハ。基督の十字架像に大きな睾丸《きんたま》を書添えておく必要がありますな」
「その通りじゃ。元来、西洋人が日本へ耶蘇教を持込んだのは日本人を去勢する目的じゃった。それじゃけに本家本元の耶蘇からして去勢して来たものじゃ。徳川初期の耶蘇教禁止令は、日本人の睾丸《きんたま》、保存令じゃという事を忘れちゃイカン」
筆者はイヨイヨ驚いた。下等列車の中《うち》で殺人英傑、奈良原到翁から基督教と睾丸《きんたま》の講釈を聞くという事は、一生の思い出と気が付いたのでスッカリ眼が冴えてしまった。
奈良原到翁の逸話はまだイクラでもある。筆者自身が酔うた翁に抜刀で追《おっ》かけられた話。その刀をアトで翁から拝領した話など数限《かずかぎり》もないが、右の通、翁の性格を最適切にあらわしているものだけを挙げてアトは略する。
因《ちなみ》に奈良原翁は嘗て明治流血史というものを書いて出版した事があるという。これはこの頃聞いた初耳の話であるが、一度見たいものである。
次は江戸ッ子のお手本、花川戸助六《はなかわどすけろく》、幡随院長兵衛《ばんずいいんちょうべえ》に対照してヒケを取らない博多ッ子のお手本、故、篠崎|仁三郎《にさぶろう》君を御紹介する。
[#改ページ]
篠崎仁三郎
(上)
……縮屋《ちぢみや》新助じゃねえが江戸っ子が何でえ。徳川三百年の御治世がドウしたというんだ。憚《はばか》んながら博多の港は、世界中で一番古いんだぞ。埃及《エジプト》の歴山港《アレキサンドリア》よりもズット古いんだ。神世の昔××××様のお声がかりの港なんだから、いつから初まったか解かれねえ位《くれえ》だ。ツイこの頃まで生きていた太田|道灌《どうかん》のお声がかりなんてえシミッタレた町たあ段式が違うんだ。
勿体《もったい》なくも日本文化のイロハのイの字は、九州から初まったんだ。アイヌやコロボックルの昔から九州は日本文化の日下開山《ひのしたかいざん》なんだ。八幡様や太閤様の朝鮮征伐、唐《から》、天竺《てんじく》の交通のカナメ処になって、外国をピリピリさせていた名所旧跡は、みんな博多を中心《まんなか》にして取囲んでいるんだ。唐津、名護屋《なごや》、怡土《いと》城、太宰府、水城《みずき》、宇美《うみ》、筥崎《はこざき》、多々羅《たたら》、宗像《むなかた》、葦屋、志賀島《しかのしま》、残島《のこのしま》、玄海島、日本海海戦の沖の島なんて見ろ、屈辱外交の旧跡なんて薬にしたくもないか
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