った。
「どうも非道《ひど》い肺炎ですから、絶対に安静にして寝ておいでなさい。御親戚の方か何かに附添っておもらいなさい」
奈良原翁は、こうした言葉を「もう助からない」意味と取って非常に感謝した。
……俺はイヨイヨ死ぬんだ。奈良原到がコレ以上に他人に迷惑をかけず、コレ以上に世道人心の腐敗堕落を見ないで死ぬるとは何たる幸福ぞ。よしよし。一つ大いに祝賀の意を表して、愉快に死んでやろう……。
奈良原翁は、その足で今一度役場に立寄って町長に面会した。
「オイ。町長。イヨイヨ俺も死ぬ時が来たぞ」
「ヘエッ。何か戦争でも始まりますか」
「アハハ。心配するな。今医者が俺を肺炎で死ぬと診断しおった。そこでこれは相談じゃが、香奠と思うて今月の俸給の残りの四円を貸してくれんか」
「ヘエヘエ。それはモウ……」
というので四円の金を握ると今度は酒屋へ行って、酒を一樽買って引栓《ひきせん》を附けて例の四畳半へ届けさした。
その樽と相前後して帰宅した奈良原翁は、軒先の雨垂落《あまだれおち》の白い砂を掻集めて飯茶碗へ入れ、一本の線香を立て樽と並べて寝床の枕元に置いた。それから大きな汁椀に酒を引いて、夜具の中でガブリガブリやっているうちにステキないい心持になった。ハハア。こんな心持なら死ぬのも悪くないな……なぞと思い思い朝鮮征伐の夢か何かを見ている中《うち》に前後不覚になってしまった。
そのうちにチューチューという雀の声が聞えたので奈良原翁はフッと気が付いた。ハハア。極楽に来たな。極楽にも雀が居るかな……なぞと考えて又もウトウトしているうちに、今度は博多湾の方向に当ってボオ――ボオ――という蒸気船の笛が鳴ったので奈良原翁はムックリと起上って眼をこすった。見ると、誰が暴れたのかわからないが昨夜の大きな酒樽が引っくり返って、栓が抜けている横に、汁椀が踏潰《ふみつぶ》されている。通夜《つや》の連中に飲ましてやるつもりで、残しておいた酒は一滴も残らず破れ畳が吸い込んで、そこいら一面、真赤になって酔払っている。
その樽と、枕を左右に蹴飛ばした奈良原翁は、蹌々踉々《そうそうろうろう》として昨日《きのう》の医者の玄関に立った。診察中の医者の首筋を、例の剛力でギューと掴んで大喝した。
「この藪医者。貴様のお蔭で俺は死損《しにそこ》のうたぞ。地獄か極楽へ行くつもりで、香奠を皆飲んで終《しも》うた人間が、この世に生き返ったらドウすればええのじゃ」
度を失った医者はポケットから昨日の皺苦茶の一円札を出して三拝九拝した。
「……ど……どうぞ御勘弁を、息の根が止まります」
「馬鹿|奴《め》……その一円は昨日《きのう》の診察料じゃ。それを取返しに来るような奈良原到と思うか。見損なうにも程があるぞ」
「どうぞどうぞ。お助けお助け」
「助けてやる代りに今日の診察料を負けろ。そうして今一遍、よく診察し直せ。今度見損うたなら斬ってしまうぞ」
因《ちなみ》にその診察の結果は全快、間違いなし。健康|申分《もうしぶん》なし。長生き疑いなしというものであった。
大正元年頃であった。桂内閣の憲政擁護運動のために、北海道の山奥から引っぱり出された奈良原到翁は、上京すると直ぐに旧友頭山満翁を当時の寓居の霊南坂に訪れた。
互いに死生を共にし合った往年の英傑児同志が、一方は天下の頭山翁となり、一方は名もなき草叢裡《そうそうり》の窮措大《きゅうそだい》翁となり果てたまま悠々|久濶《きゅうかつ》を叙《じょ》する。相共に憐れむ双鬟《そうかん》の霜といったような劇的シインが期待されていたが、実際は大違いであった。両翁が席を同じゅうして顔を見合せてみると、双方ともジロリと顔を見交してアゴを一つシャクリ上げた切り一言も言葉を交さなかった。知らぬ者が見たら、銀座裏でギャング同志がスレ違った程度の手軽い挨拶に過ぎなかったが、しかし、その内容は雲泥の違いで、両翁とも互いに、往年の死生を超越して気魄が、老いて益々|壮《さかん》なるものが在るのを一瞥の裡《うち》に看取し合って、意を強うし合っているらしい。その崇高とも、厳粛とも形容の出来ない気分が、席上に磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》して来たので皆思わず襟《えり》を正したという。
それから入代《いりかわ》り立代り来る頭山翁の訪客を、奈良原翁はジロリジロリと見迎え、見送っていたが、やがて床の間に置いてある大きな硯石《すずりいし》に注目し、訪客の切れ目に初めて口を開いた。
「オイ。頭山。アレは何や」
頭山翁は、その硯をかえりみて微笑した。
「ウム。あれは俺が字を書いてやる硯タイ」
奈良原翁は、それから間もなく頭山翁に見送られて玄関を辞去したが、門前の広い通りを黙って二三町行くと、不意に立止って鴉《からす》の飛んで行く夕空を仰い
前へ
次へ
全45ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング