って、身内が温まって、勇気が出て来た。吾|後《おく》れじと石垣を匐登《はいのぼ》って来た……という話であった。これなぞは囚人特有の一種の英雄崇拝主義の極端なあらわれの一つに相違ないので、奈良原到の異常な性格を端的に反映した好逸話でなければならぬ。
「その頃の囚人の気合は今と違うておったように思うなあ」
と嘗《かつ》て奈良原翁は酒を飲み飲み筆者に述懐した。
「ワシは長巻直《ながまきなお》しの古刀を一本持っておった。二尺チョッと位と思われる長さのもので、典獄時代から洋剣《サアベル》に仕込んでおったが良う切れたなあ。腕でも太股でも手ごたえが変らん位で、首を切るとチャプリンと奇妙な音がして血がピューと噴水のように吹出しながらたおれる。ああ斬れた……と思う位で水も溜まらぬというが全くその通りであった。その癖刀身は非常に柔らかくて鉛か飴のような感がした。台湾の激戦の最中に生蕃の持っている棒なぞを斬ると帰って来てから鞘《さや》に納まらん事があったが、それでも一晩、床の間に釣り下げておくと翌る朝は自然と真直《まっすぐ》になっておった。生蕃征伐に行った時、大勢の生蕃を珠数《じゅず》つなぎに生捕って山又山を越えて連れて帰る途中で、面倒臭くなると斬ってしまう事が度々であった。あの時ぐらい首を斬った事はなかったが、ワシの刀は一度も研《と》がないまま始終切味が変らんじゃった。
生蕃という奴は学者の話によると、日本人の先祖という事じゃが、ワシもつくづくそう思うたなあ。生蕃が先祖なら恥かしいドコロではない。日本人の先祖にしては勿体ない位、立派な奴どもじゃ。彼奴《きゃつ》等は、戦争に負けた時が、死んだ時という覚悟を女子供の端《はし》くれまでもチャンと持っているので、生きたまま捕虜にされると何とのう不愉快な、理窟のわからんような面《つら》付きをしておった。彼奴等は白旗を揚げて降参するなどいう毛唐流の武士道を全く知らぬらしいので、息の根の止まるまで喰い付いて来よったのには閉口したよ。そいつを抵抗出来ぬように縛り上げて珠数つなぎにして帰ると、日本人は賢い。首にして持って帰るのが重たいためにこうするらしい。俺達は自分の首を運ぶ人夫に使われているのだ……と云うておったそうじゃが、これにはワシも赤面したのう。途中で山道の谷合いに望んだ処に来ると、ここで斬るのじゃないかという面付《つらつき》で、先に立っている奴が白い歯を剥《む》き出して冷笑しいしい、チラリチラリとワシの顔を振り返りおったのには顔負けがしたよ。そんな奴はイクラ助けても帰順する奴じゃないけに、総督府の費用を節約するために、ワシの一存で片端《かたっぱし》から斬り棄《すて》る事にしておった。今の日本人の先祖にしてはチッと立派過ぎはせんかのうハッハッハッハッ」
日本に帰って千代町の役場に奉職している時は毎月五円の月給(巡査の月給二円五十銭、警部が三円時代)を貰っていたが、その殆んど全部が酒代《さかて》になっていた事は云う迄もない。今は故人になった前の福岡市の名市長、佐藤平太郎氏は神戸署の一巡査の身で、外人の治外法権制度に憤慨し、神戸居留地域を離るる一間ばかりの処で、人力車夫に暴行して逃げて行く外人を斬って棄て、天下を騒がした豪傑であるが、氏は語る。
「巡査を罷《や》めて故郷に帰り、久し振りに昔の面小手《めんこて》友達の奈良原を千代町の寓居に訪うてみると、落ちぶれたにも落ちぶれないにも四畳半といえば、四畳半、三方の壁の破れから先は天下の千畳敷に続いている。その秣《まぐさ》を積んだような畳の中央に虱《しらみ》に埋まったまま悠々と一升徳利を傾けている奈良原を発見した時には、流石《さすが》の僕も胸が詰ったよ。僕も相当、落ちぶれたおぼえはあるが、奈良原の落ちぶれようには負けた。アンマリ穢《きたな》いので上りかねているのを無理に引っぱり上げた奈良原は大喜びだ。
『久し振りだ。丁度いいところだから一杯飲め。まずその肴《さかな》を抓《つま》め』という。見ると禿《は》げちょろけた椀の蓋に手前が川で掴んで来たらしい一|寸《すん》ぐらいの小蝦《こえび》が二匹乗っかっている。『遠慮なく喰え』という志は有難いが、それを肴に奈良原が一升の酒を飲むのかと思うと涙がこぼれた。一匹の小蝦が咽喉《のど》を通らないのを無理に冷酒《ひやざけ》で流し込んで『これが土産だ』と云ってその時の僕の全財産、二十銭を置いて来た」云々。
そうした貧乏のさなかに大変な事が起った。奈良原翁が病気になったのだ。
何だか酒が美味《おいし》くない。飯が砂を噛むようで、頭がフラフラして死にそうな気がするので、千代町役場からその月の俸給を一円借りて近所の医者の処へ行った。一円出して診察を請うて薬を貰ったが、
「どうです。助かりますか」
と問うてみると若い医者が首をひね
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