世話にでもなりとうなるものじゃ。藩閥の犬畜生にでも頭を下げに行かねば遣り切れんようになるものじゃが、そげな時に、あの月と霜に冴え渡った爽快な声を思い出すと、腸《はらわた》がグルグルグルとデングリ返って来る。何もかも要らん『行くぞオ』という気もちになる。貧乏が愉快になって来る。先生……先生と思うてなあ……」
 と云ううちに奈良原翁の巨大な両眼から、熱い涙がポタポタと滾《こぼ》れ落ちるのを筆者は見た。
 奈良原到少年の腸《はらわた》は、武部先生の「行くぞオーオ」を聞いて以来、死ぬが死ぬまで腐らなかった。

       (下)

 月明の霜朝に、自分等に代って断頭場に向った大先輩、武部小四郎先生の壮烈を極めた大音声《だいおんじょう》、
「行くぞオーオ」
 を聞いて以来、奈良原到少年の腸《はらわた》は死ぬが死ぬまで腐らなかった。
 その後、天下の国士を以て任ずる玄洋社の連中は、普通の人民と同様に衣食のために駈廻らず、同時に五斗米に膝を屈しないために、自給自足の生活をすべく、豪傑知事|安場保和《やすばやすかず》から福岡市の対岸に方《あた》る向い浜(今の西|戸崎《とざき》附近)の松原の官林を貰って薪を作り、福岡地方に売却し始めた。奈良原到少年もむろん一行に参加して薪採《たきぎと》りの事業に参加して粉骨砕身していたが、その後、安場知事の人格を色々考えてみると、どうも玄洋社を尊敬していないようである。却《かえ》って生活の糧《かて》を与えて慰撫しているつもりらしく見えたので、或夜、奈良原到はコッソリと起上って誰にも告げずに山のように積んである薪の束の間に、枯松葉を突込んで火を放ち、悉《ことごと》く焼棄してしまった。つまり天下の政治を云為《うんい》する結社が区々たる知事|風情《ふぜい》の恩義を蒙《こうむ》るなぞいう事は面白くないという気持であったらしいが、対岸の福岡市では時ならぬ海上の炬火《かがりび》を望んで相当騒いだらしい。馳付《はせつ》けた同志の連中も、手を拍って快哉を叫んでいる奈良原少年の真赤な顔を見て唖然となった。一人として火を消し得る者が無かったという。
 こうした奈良原少年の精神こそ、玄洋社精神の精髄で、黒田武士の所謂《いわゆる》、葉隠れ魂のあらわれでなければならぬ。玄洋社の連中は何をするかわからぬという恐怖観念が、明治、大正、昭和の政界、時局を通じて暗々の裡《うち》に人心を威圧しているのもこの辺に端を発してるのではなかろうか。

 そのうちに四国の土佐で、板垣退助という男が、自由民権という事を叫び出して、なかなか盛んにやりおるらしい。明治政府でもこれを重大視しているらしい……という風評が玄洋社に伝わった。
 その当時の玄洋社員は筆者の覚束《おぼつか》ない又聞きの記憶によると頭山満が大将株で奈良原到、進藤喜平太、大原|義剛《ぎごう》、月成勲《つきなりいさお》、宮川太一郎なぞいう多士済々たるものがあったが、この風聞に就いて種々凝議した結果、とにも角にも頭山と奈良原に行って様子を見てもらおうではないかという事になった。
 その当時の評議の内容を伝え聞いていた福岡の故老は語る。
「大体、玄洋社というものは、土佐の板垣が議論の合う者同志で作っておった愛国社なんぞと違うて、主義も主張も何もない。今の世の中のように玄洋社精神なぞいうものを仰々しく宣言する必要もない。ただ何となしに気が合うて、死生を共にしようというだけでそこに生命《いのち》知らずの連中が、黙って集まり合うたというだけで、そこに燃え熾《さか》っている火のような精神は文句にも云えず、筆にも書けない。否《いや》文句以上、筆以上の壮観で、烈々|宇内《うだい》を焼きつくす概があった。頭山が遣るというなら俺も遣ろう。奈良原が死ぬというなら俺も死のう。要らぬ生命《いのち》ならイクラでも在る。貴様も来い。お前も来い。……という純粋な精神的の共産主義者の一団とも形容すべきものであった。それじゃけに、愛国社の連中は一度《ひとたび》、時を得て議論が違うて来ると、外国の社会主義者連中と同じこと直ぐに離れ離れになる。もっとも今の政党は主義主張が合うても利害が違うと仲間割れするので、今一段下等なワケじゃが、玄洋社となると理窟なしに集まっとるのじゃけに日本の国体と同じことじゃ。利害得失、主義主張なぞがイクラ違うても、お互いに相許しとる気持は一つじゃけに議論しながら決して離れん。玄洋社は潰れても玄洋社精神は今日《こんにち》まで生きておって、国家のために益々|壮《さか》んに活躍しおるのじゃ。そげなワケじゃけに、その当時の玄洋社で一口に自由民権と聞いても理窟のわかる奴は一人も居らんじゃった。それじゃけに、ともかくもこの二人に板垣の演説を聞いてもろうて、国のためにならぬと思うたならば二人で板垣をタタキ潰してもらおう。
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