の深い同情心とを以《もっ》て、敬意を払い得る人の在りや無しやを問いたいために云うのである。
その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締った唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、磅※[#「石+(蒲/寸)」、第3水準1−89−18]《ほうはく》している凄愴《せいそう》の気魄はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。鎧《よろい》の仮面に似た黄褐色の怒髭《どし》、乱髯《らんぜん》。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮《ひとちぢ》みに縮み上ったであろう。況《いわ》んやその老いて益々筋骨隆々たる、精悍《せいかん》そのもののような巨躯に、一刀を提《ひっさ》げて出迎えられたならば、如何なる無法者と雖《いえど》も、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたッ」という錯覚を起して引っくり返ったかも知れない。
事実、玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少かったであろう。そうしてその死骸を平気で蹴飛ばして瞬《またたき》一つせずに立去り得る人間は殆んど居なかったであろう。奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵《みじん》でも正義に背《そむ》く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人という感じに、一眼《ひとめ》で打たれてしまうのであった。
この奈良原翁の徹底した正義観念と、その戦慄に価する実行力が、世人の嫌忌を買ったのではあるまいか。そうしてその刀折れ矢尽きて現社会から敗退して行った翁の末路を見てホッとした連中が「それ見ろ。いい気味だ」といったような意味から、卑怯な嘲罵を翁の生涯に対して送ったのではあるまいか。
実際……筆者は物心付いてから今日まで、これほどの怖い、物すごい風采をした人物に出会った事がない。同時に又、如何なる意味に於ても、これ程に時代離れのした性格に接した事は、未だ曾《かつ》て一度もないのである。
そうだ。奈良原翁は時代を間違えて生れた英傑の一人なのだ。翁にしてもし、元亀天正の昔に生を稟《う》けていたならば、たしかに天下を聳動《しょうどう》していたであろう。如何なる権威にも屈せず、如何なる勢力をも眼中に措《お》かない英傑児の名を、青史に垂れていたであろう。
こうした事実は、奈良原翁と対等に膝を交えて談笑し、且つ、交際し得た人物が、前記頭山、杉山両氏のほかには、あまり居なかった。それ以外に奈良原翁の人格を云為《うんい》するものは皆、痩犬の遠吠えに過ぎなかった事実を見ても、容易に想像出来るであろう。
明治もまだ若かりし頃、福岡市外(現在は市内)住吉の人参畑《にんじんばたけ》という処に、高場乱子《たかばらんこ》女史の漢学塾があった。塾の名前は忘れたが、タカが女の学問塾と思って軽侮すると大間違い、頭山満を初め後年、明治史の裏面に血と爆弾の異臭をコビリ付かせた玄洋社の諸豪傑は皆、この高場乱子女史と名乗る変り者の婆さんの門下であったというのだから恐ろしい。彼《か》の忍辱慈悲の法衣の袖に高杉晋作や、西郷隆盛の頭を撫で慈しんだ野村|望東尼《ぼうとうに》とは事変り、この婆さん、女の癖に元陽と名乗り、男髪《おとこがみ》の総髪に結び、馬乗袴《うまのりばかま》に人斬庖刀を横たえて馬に乗り、生命《いのち》知らずの門下を従えて福岡市内を横行したというのだから、デートリッヒやターキーが辷《すべ》ったの、女学生のキミ・ボクが転んだの候《そうろう》といったって断然ダンチの時代遅れである。時は血腥《ちなまぐさ》い維新時代である。おまけに皺苦茶の婆さんだからたまらない。
わが奈良原到少年はその腕白盛りをこの尖端婆さんの鞭撻下にヒレ伏して暮した。そのほか当時の福岡でも持て余され気味の豪傑青少年は皆この人参畑に預けられて、このシュル・モダン婆さんの時世に対する炬《かがりび》の如き観察眼と、その達人的な威光の前にタタキ伏せられたものだという。
その当時の記憶を奈良原到翁に語らしめよ。
「人参畑の婆さんの処にゴロゴロしている書生どもは皆、順繰りに掃除や、飯爨《めしたき》や、買物のお使いに遣られた。しかし自分《わし》はまだ子供で飯が爨《た》けんじゃったけにイツモ走り使いに逐《お》いまわされたものじゃったが、その当時から婆さんの門下というと、福岡の町は皆ビクビクして恐ろしがっておった。
自分《わし》の同門に松浦|愚《おろか》という少年が居った。こいつは学問は一向|出来《でけ》ん奴じゃったが、名前の通り愚直一点張りで、勤王の大義だけはチャント心得ておった。この松浦愚と自分《わ
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