ば返せ。返されんチ云うなら二人とも警察まで来い。サア来い」
「まあ待ちなさい。チャンと話は附ける。ブリな事をば云いなさんな」
「又仁輪加を云う。何がブリかい。その仁輪加を警察へ来て云うて見い。サア来い」
湊屋の相棒は市場名物の短気者であった。
「ええ。面倒な。鰤さえ返せば文句はないか」
と云ううちに、店の天井からブラ下っていた鰤の半身《かたみ》を引卸して、片手ナグリに箒売を土間へタタキ倒した。
「持って失《う》せれ外道サレエ。市場《おおはま》の人間を見損のうたか」
箒屋は剣幕に呑まれたらしい。鰤の半身《かたみ》も、持って来た丼もそのままに起上《たちあが》って、棕梠箒の荷を担いで逃げて行く奴を、追い縋った相棒が引ずり倒してポカポカと殴り付けた。商売物の箒が泥ダラケになってしまった。
その間に湊屋は黙って鰤の半身《かたみ》を拾ってモトの天井の釘へブラ下げるのを、居酒屋の因業おやじ[#「おやじ」に傍点]が奥から見ていたらしい。イキナリ飛出して来て仁三郎の前に立ちはだかった。
「その鰤は商売《あきない》物ばい。黙って手をかけたからには、そのままには受取れん」
仁三郎は返事をしないままその鰤の半身《かたみ》をクフンクフンと嗅いでみた。
「親爺《とっ》さん、悪い事は云わん。この鰤は腐っとるばい。こげな品物《もん》ば下げておくと、喰うたお客の頭の毛が抜けるばい」
「要らん世話たい。腐っておろうがおるまいがこっちの品物じゃろうが、銭《ぜに》を払え銭を……」
「ナニ。貴様もこの鰤が喰いたいか」
帰って来た相棒が割込んで来たのを仁三郎が慌てて押止めた。
「まあまあそう因業な事をば云いなさんな。折角の喧嘩が又ブリ返すたい」
「その禿頭《はげあたま》をタタキ割るぞ畜生」
「止めとけ止めとけ。タタキ割っても何にもならん。腐ったブリが忘れガタミじゃ詰らん」
この洒落がわかったらしい。親爺が、眼をグルグルさしたまま黙って引込んだ。
二人は連立って店を出た。
「ああ、久しブリで美味《うま》かった」
「俺もチイッと飲み足らんと思うておったれあ、今の喧嘩でポオッとして来た。二合|分《ぶり》ぐらいあったぞ、箒売のアタマが……オット今の丼をば忘れて来た」
「馬鹿な。置いとけ置いとけ。ショウガなかろう」
飄逸、洒脱、繊塵《せんじん》を止めず、風去って山河秋色深し。更に挙《こ》す。看よ。
仁三郎の友人に水野某という青物問屋の主人があった。その又二人の友人で又木某という他県人の青物仲買人があった。その又木某は身寄タヨリのない全くの独身者《ひとりもの》で、兼てから湊屋仁三郎と水野某を保証人として何千円かの生命保険に加入していた。又木|曰《いわ》く、
「俺は篠崎にも水野にも一方《ひとかた》ならぬ世話になった。俺の家《うち》は代々胃癌で死ぬけに、俺も死ぬかも知れぬ。それで万一俺が死んだなら一つ頼むけに俺の葬式をしてくれい。ナア」
涙もろい二人は喜んで証書に印判を捺《お》したものであった。もとより無学文盲の二人の事とて、法律の事なんか全く知らず、盲判《めくらばん》も同然で金額なども全然忘れたまま仲よく交際していた。
ところがどうした天道様の配り合わせか、間もなくその又木が四十五歳を一期として胃癌で死んだ。お蔭で思いがけない巨額の金が、二人の懐《ふところ》に転がり込んだので二人は少なからず面喰った。
「何でも構わぬ。約束は約束じゃ。出来るだけ賑やかに葬式をしてやれ」
というので立派な石塔を建てた上に永代|回向《えこう》料まで納めてしまったが、それでも余った相当の金額を持ってソンナところは無暗《むやみ》に義理固い篠崎、水野の両保証人が、又木の本籍地へ乗込んだ。色々身よりを探しまわって又木の後を立てるべく苦心したが、その又木のアトがどうしてもわからない。そこで……これでは詰まらん博多へ帰ろう。又木の菩提追福のためにこの金《かね》を潔く女共へ呉れてしまおう……というので仕事の休み序《ついで》に柳町に押上り、あらん限りの太平楽を並べて瞬く間に残金を成仏させて帰った。そうして帰ると直ぐに二人で一パイ飲んだ。
「ああ清々した。しかし水野、保険というものはええものじゃねえ」
「ウン。こげな有難い物《もん》たあ知らんじゃった。感心した。又誰か保険に加入《はい》らんかな」
「おお。そういえばあの角屋の青柳喜平はまあだ三十四五にしかならんのに豚の様《ごと》ブクブク肥えとる。百四五十|斤《きん》位あるけに息が苦しいとこの間自分で云いよった。あの男なら四十位になると中風《ちゅうき》でコロッと死ぬかも知れんぜ」
「うむ。アイツの親爺《おやじ》も中気で死んどる。彼奴《あいつ》は保険向きに生れとる事をば、自分でも知らずにいるに違いない」
「貴様は何でも勧め上手じゃケニ一つ行《い》て教
前へ
次へ
全45ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング