えて来《き》やい」
「ウン。よかろう。行《い》て来《こ》う。今から行て来う。善は急げ……」
「今度は又木の三倍ぐらい掛けて来《き》やい」
「ウン。飲みながら待っとれ。帰りに今少《まちっ》と、肴《さかな》ば提げて来るけに……」
青柳喜平というのは当時から福岡の青物問屋でも一番の老舗《しにせ》で双水執流《そうすいしつりゅう》という昔風の柔道の家元で、武徳会の範士という、仁三郎には不似合いな八釜《やかま》しい肩書附の親友であった。現、角屋の三右衛門氏の養父、現画伯、青柳喜兵衛《あおやなぎきべい》氏の実父。若くして禅学に達し、聖福寺《しょうふくじ》の東瀛《とうえい》禅師、建仁寺の黙雷和尚《もくらいおしょう》に参し、お土産に宝満山の石羅漢の包みを提《ひっさ》げて行って京都の俥屋《くるまや》と、建仁寺内を驚かした。日露戦争の時の如き、福岡聯隊の依頼に応じて、露西亜《ロシア》の俘虜《ふりょ》の中でも一番強力な暴れ者を猫の前の鼠の如くならしめたという怪力、怪術無双の変り者で、筆者ともかなり心安かったので自然この話を同氏の直話として洩れ聞いた訳である。
喜平氏は親友湊屋仁三郎の使者《つかい》として同業の水野が、白足袋などを穿《は》いて改まって来たので、何事か知らんと思って座敷に上げた。ちょうど時分がよかったので午餐《ごさん》まで出して一本|燗《つ》けた。
水野は遠慮なく厄介になりながら熱心に説去《ときさ》り説来《とききた》ったが、聞き終った青柳喜平氏は米搗杵《こめつききね》みたいな巨大な腕を胸の上に組んだ。
「ウムウム。成る程成る程。よう解かった。如何にも貴様の云う通り人間は老少|不定《ふじょう》。いつ死ぬるかわからん。俺の親父《おやじ》も中気で死んどる故《けに》、血統《すじ》を引いた俺も中気でポックリ死なんとは限らん。実はこの頃、肥り過ぎて子供相手に柔術《やわら》が取れんので困っとる。技術《わざ》に乗ってやれんでのう」
「ウン。それじゃけに今の中《うち》に保険に入れと……」
「まあ待て待て。それは良う解かっとる。這入らんとは云わん」
「有難い。流石《さすが》は青柳……」
「チョチョチョッと待て……周章《うろたえ》るな。そこでタッタ一つ解らん事がある」
「何が解らんかい。これ位わかり易い話はなかろう」
「さあ。それが解からんテヤ。つまりその俺がポックリ死んだなら、取れた保険の金は貴様達二人が貰われるように、証文をば書いておけと云いよるのじゃろう」
「その通りその通り。貴様は話がようわかる」
「そんならその保険に掛ける金は、誰が掛けるとかいネエ。貴様達が掛けるか……」
「馬鹿云え。知れた事。貴様の保険じゃけに、貴様が掛けるにきまっとるじゃないか」
「……馬鹿ッ……帰れッ……」
青柳に大喝された水野は、上り口から飛降りて、下駄を提げたまま二三町無我夢中で走った。その白足袋を宙に舞わして逃げて行った恰好が、今思い出しても可笑《おか》しいと青柳喜平氏は筆者に語った。
「怪《け》しからん親友もあればあるものです。私が肥っているのを見て煮て喰いとうなって保険の鍋《なべ》に這入れとすすめに来る奴です。彼奴等《あいつら》の無学文盲にも呆れました」
吉報を待ってチビリチビリやっていた仁三郎は、門口から悄然《しょうぜん》と何か提げて這入って来た水野を見てビックリした。
「どうしたとや。何をば提げて来たとや」
水野は黙って下駄を出して見せた。頭を掻きながらタメ息を吐《つ》いた。
「詰まらん。青柳は知っとる」
篠崎もソレとわかって長大息した。
「そうか。知っとっちゃ詰まらん」
末後の一句、甚だ無造作。本来無一物。尻喰《けつくら》え観音である。こうなると人格も技養もない。日面仏。月面仏。達磨《だるま》さん。ちょとコチ向かしゃんせである。更に挙《こ》す。看よ。
前述の朝鮮、漁業組合長、林駒生氏は朝鮮第一の漁業通であり且、水産狂である。苟《いやしく》も事水産に関する話となると、身分の高下、時の古今、洋の東西を問わない。尽くタッタ一人で説明役にまわって滔々《とうとう》数時間、乃至《ないし》、数十日間に亘り、絶対に他人に口を入れさせないので、歴代の統監、農林、商工の各大臣、一人として煙《けむ》に捲かれざるなく、最少限、朝鮮沿海に関する問題については、視察に来る内地の役人を尽く馳け悩まして、一毫も容喙《ようかい》の余地なからしめた。或る材木商の如きは、同氏に話込まれたために新義州の材木に手附を打ち損ね、数万円の損害を受けたという程の雄弁家である。
その林駒生氏が嘗てこれも座談の名士として聞えた長兄、杉山茂丸氏と福岡市吉塚|三角在《みすみざい》、中島徳松氏の別荘に会し、久濶《きゅうかつ》を叙《じょ》し、夕食の膳に就いた。同席のお歴々には故八代大将、前九大教授武
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