人間万事が仁輪加の材料でしかなかった。事窮すれば窮するほど上等の仁輪加が出来るだけの事であった。彼は洒々落々の博多児《はかたっこ》の生粋《きっすい》、仁輪加精神の権化であった。
 太閤様を笑わせ、千利休を泣かせるのは曾呂利《そろり》新左衛門に任す。白刃上に独楽《こま》を舞わせ、扇の要《かなめ》に噴水を立てるのは天一天勝《てんいちてんかつ》に委す。木仏、金仏を抱腹させ、石地蔵を絶倒させるに到っては正に湊屋仁三郎の日常茶飯事《おてのもの》であった。更に挙《こ》す。看よ。

 やはり湊屋仁三郎が一文無し時代の事。連日の時化《しけ》で商売は出来ず、仕様ことなしに、いつも仲好しの相棒と二人で、博多大浜の居酒屋へ飛込んだ。無けなしの銭《ぜに》をハタキ集めてやっと五合|桝《ます》一パイの酒を引いたが、サテ、酒肴《さかな》を買う銭が無い。向うの暗い棚の上には、章魚《たこ》の丸煮や、蒲鉾の皿が行列している。鼻の先の天井裏からは荒縄で縛った生鰤《ぶり》の半身《かたみ》が、森閑とブラ下っているが、無い袖は振られぬ理窟で、五合桝を中に置いて涙ぐましく顔を見交しているところへ天なる哉、小雨の降る居酒屋の表口に合羽《かっぱ》包みの荷を卸《おろ》した一人の棕梠箒売《しゅろぼうきうり》が在る。
 元来この棕梠箒売という人種は、日本中、どこへ行っても他国《たび》の者が多い。従ってどことなく言葉癖が違っている上に、根性のヒネクレた人間が珍らしくない。仁輪加なんか無論わかりそうにないノッソリした奴が多いのであるが、その中でも代表的と見える色の黒い、逞ましそうな奴が、骰子《さい》の目に切った生鰤《ぶり》の脂肉《あぶらにく》の生姜《しょうが》醤油に漬けた奴を、山盛にした小丼を大切そうに片手に持って、
「ええ。御免なはれ」
 と這入って来た。唖然として見惚《みと》れている仁三郎とその相棒を尻目にかけ、件《くだん》の小丼を仁三郎の背後のバンコに置き、颯爽《さっそう》として奥へ這入り、店の親爺《おやじ》を捉まえて商売物の棕梠箒で棕梠ハタキを押付けて酒代にすべく談判を始めた。ところがその居酒屋の親爺なる人物が又、人気の荒い大浜界隈でも名打ての因業《いんごう》おやじ[#「おやじ」に傍点]でナカナカそんな甘手《あまて》の元手喰式《さやくい》慣用手段《いんちき》に乗るおやじ[#「おやじ」に傍点]でない。ヤッサ、モッサと話が片付かぬ中《うち》に二人は、代る代る手を出して背後《うしろ》の小丼の中味を抓《つま》んだ。
「ハハン。この家のおっさん[#「おっさん」に傍点]のガッチリして御座るのには呆れた。両方儲かる話が、わからんチウタラ打出の小槌でたたいても銭《ぜぜ》の出んアタマや……ハハン。買うて下はらぬ位なら他の店へ行くわい」
 とか何とか棄科白《すてぜりふ》で、大手を振って棕梠箒売が引返して来た時には、小丼の中にはモウ濁った醤油と、生姜の粉が、底の方に淀んでいるだけであった。
 箒売は土間の真中に突立ったまま唖然となって、上機嫌の二人を眺めておった……が、やがてガラリと血相を変えると、知らん顔をして指を舐《な》めている仁三郎に喰って蒐《かか》った。
「……アンタ等は……ダ……誰に断って、この肴《さかな》をば、抓《つま》みなさったカイナ」
 湊屋がゲラゲラ笑い出した。
「アハハ、途方もない美味《うま》か鰤じゃったなあ。ホーキに御馳走様じゃった。まず一杯差そうと云いたいところじゃが、赤桝《ます》の中はこの通り、逆様《さかさま》にしても一しずくも落ちて来んスッカラカン……アハハハハ。スマンスマン……」
 真青になって腕を捲くった箒売が、怒髪天を衝《つ》いた。
「済まんで済むか。切肉《きりみ》を戻せッ」
 仁三郎は柔道の免許取りであっただけにチットも驚かなかった。
「イヤ、悪かった。猫に干鰯《ほしか》でツイ卑しい根性出いたのが悪かった」
「この外道等……訳のわからん文句を云うな。ヌスット……」
「イヤ。悪かった悪かった。冗談云うて悪かった。博多の人間《もん》なら仁輪加で笑うて片付くが、他国《たび》の人なら腹の立つのも無理はない。悪かった悪かった。ウチまで来なさい。返済《まどう》てやるけに。ナア。この通り謝罪《ことわり》云うけに……」
 元来が温厚な仁三郎は、見ず知らずの箒売の前に鉢巻を取って平あやまりに謝罪《あやま》った。
「貴様の家《うち》まで行く用はない。金が欲しさに云いよるのじゃないぞ。今喰うた切肉《きりみ》を元の通りにして返せて云いよるとぞ」
 押が強くて執念深いのが箒売の特色である。その中でも特別|誂《あつら》えの奴と見えて、相手は二人と見ても怯《ひる》まなかった。因縁を附けてイタブリにかかる気配であった。
「他国《たび》の人間《もん》と思って軽蔑するか。一人と思うて侮るか。サア鰤を
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