火を点《つ》けた。何をするのかと思うと、その蝋涙《ろうるい》を中央の通路のマン中にポタポタと垂らしてシッカリとオッ立てた。驚いて見ているうちに、今度は腰から煤竹筒《すすだけづつ》の汚ない煙草入を出して、その蝋燭の火で美味《おいし》そうに何服も何服も刻煙草《きざみたばこ》を吸うのであったが、まだ発車していないので、荷物なんかを抱えて通抜けようとする奴なんかが在ると、翁が殺人狂じみた物凄い眼を上げて、ジロジロと睨むので、一人残らず引返して出て行く。痛快にも傍若無人にもお話にならない。見るに見かねた筆者が、
「マッチならコチラに在りますよ」
 と云ううちに煙草を吸い終った翁は、蝋燭の火を蝋涙と一緒に振切って、古新聞紙に包んで袂に入れた。蝋涙を引っかけられた向側の席の人が慌ててマントの袖《そで》を揉んでいたが、翁は見向きもしなかった。
「マッチや線香で吸うと煙草が美味《おい》しゅうない。燃え火で吸うのが一番|美味《おいし》いけになあ」
 奈良原翁の味覚が、そこまで発達している事に気附かなかった筆者は全く痛み入ってしまった。この塩梅《あんばい》では列車に放火して煙草を吸いかねないかも知れない。
「北海道の山奥で雪に埋れていると酒と煙草が楽しみでなあ。炉の火で吸う煙草の味は又格別じゃ。もっとも煙草は滅多に切れぬが酒はよく切れたので閉口した。万止むを得ん時には砂糖湯を飲んだなあ。アルコールも砂糖も化学で分析してみると同じ炭素じゃけになあ」
 筆者はイヨイヨ全く痛み入ってしまった。同時にそこまで考える程に苦しんだ翁が気の毒にもなった。

 国府津《こうづ》に着いてから正宗の瓶と、弁当を一個買って翁に献上すると、流石《さすが》に翁の機嫌が上等になって来た。同時に翁の地声がダンダン潤おいを帯びて来て、眼の光りが次第に爛々炯々《らんらんけいけい》と輝き出したので、向い合って坐っていた二人が気味が悪くなったらしい。箱根を越えない中《うち》にソコソコと荷物を片付けて、前部の車へ引移ってしまったので、翁は悠々と足を伸ばした。世の中は何が倖《しあわせ》になるかわからない。筆者もノウノウと両脚を踏伸ばして居ねむりの準備を整える事が出来た。その二人の脚の間へ翁が又、弁当箱の蓋にオッ立てた蝋燭の火を置いたので、筆者は又、油断が出来なくなった。
 翁は一服すると飯を喰い喰い語り出した。
「北海道の山の中
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