《やりくち》を、手ぬるしと見たか、時代|後《おく》れと見たか、その辺の事はわからない。しかし、たしかにモット近代的な、又は実際的な方法手段をもって、独力で日本をリードしようと試みて来た人間である事は事実である。
事実、彼には乾児《こぶん》らしい乾児は一人も居ない。乾児らしいものが近付いて来る者はあっても、彼の懐中《ふところ》から何か甘い汁を吸おうと思って接近して来る者が大部分で、彼の人格を敬慕するというよりも、彼の智恵と胆力を利用しようとする世間師の部類に属する者が多く、それ等の煮ても焼いても喰えない連中を巧みに使いこなして自分の仕事に利用する。そうして利用するだけ利用して最早《もはや》使い手がないとなると弊履《へいり》の如く棄ててかえりみないところに、彼の腕前のスゴサが常に発揮されて行くのである。嘗て筆者は彼からコンナ話を聞いた。
「福沢桃介という男が四五年前に、福岡市の電車を布設するために俺に接近して来たことがある。俺は彼に利用される振りをして、彼の金《かね》を数万円使い棄てて見せたら、彼奴《きゃつ》め、驚いたと見えて、フッツリ来なくなってしまった。ところが、この頃又ヒョッコリ来はじめたところを見ると、何喰わぬ顔をして俺に仇討《あだう》ちをしに来ているらしいから面白いじゃないか。だから俺も一つ何喰わぬ顔をして彼奴に仇《あだ》を討たれてやるんだ。そうして今度は前よりもウンと彼奴の金を使ってやるんだ。事によると彼奴めが俺に仇《あだ》を討ち終《おお》せた時が身代限りをしている時かも知れぬから見ておれ」
因《ちなみ》に彼……杉山其日庵主は、こうした喰うか喰われるか式の相手に対して最も多くの興味を持つ事を生涯の誇りとし楽しみとしている。そうして未だ嘗て喰われた事がないことを彼に対して野心を抱く人々の参考として附記しておく。
話がすこし脱線したが、其日庵主は玄洋社を離脱してから海外貿易に着眼し、上海《シャンハイ》や香港《ホンコン》あたりを馳けまわって具《つぶさ》に辛酸を嘗《な》めた。
その上海や香港で彼は何を見たか。
その頃は支那に於ける欧米列強の国権拡張時代であった。従って彼、杉山茂丸は、その上海や香港に於て、東洋人の霊と肉を搾取しつつ鬱積し、醗酵し、糜爛《びらん》し、毒化しつつ在る強烈な西洋文化のカクテルの中に、所謂|白禍《はっか》の害毒の最も惨烈なものを看
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