とる。浅蜊《あさり》貝の腐ったゴト口開けとる奴《と》ばドウするケエ』
『まあまあ。そう云うな。一人息子じゃけに、念入れとこう』
この時ぐらい親の恩を有難いと思うた事は御座いません。親というものが無かったならこの時に私は、ほかの連中と一所に棺箱《はこ》へ入れられて、それなりけりの千秋楽になっておりました訳で……。
『その通りその通り。助けてくれい助けてくれい』
と呼ぼうにも叫ぼうにも声は出ず、手も合わせられませぬ。耳を澄まして運を天に任かせておるその恐ろしさ。エレベータの中で借金取りに出会うたようなもので……ヘエ……。
それでもお蔭様で生き上《あが》りますと又、現金なもので、折角、思い知った親の恩も何も忘れて博奕は打つ……××はする……。
……ヘエ。その××ですか。これはどうも商売の奥の手で、この手を使わぬ奴は人気が立たず。魚類《さかな》が売れません。まあ云うてみればこの奥の手を持たん奴は魚売の仲間《かず》に這入らんようなもので……ヘヘヘ。
その頃、私はまあだ問屋《とんや》の糶台《ばんだい》に座らせられません。禿頭《はげ》の親爺《おやじ》がピンピンして頑張っておりましたので……その親父《おやじ》が引いてくれた魚類《さかな》の荷籠《めご》に天秤棒《ぼおこ》を突込んで、母親《かかさん》が洗濯してくれた袢纏《はんてん》一枚、草鞋《わらじ》一足、赤褌《あかべこ》一本で、雨風を蹴破《けやぶ》ってワアッと飛出します。どこの町でも魚類売《さかなう》りは行商人《あきないにん》の花形役者《はながた》で……早乙女《あんにゃん》が採った早苗《なえ》のように頭の天頂《てっぺん》に手拭《てのごい》をチョット捲き付けて、
『ウワ――イ。ナマカイランソ(鰯の事)、ウワ――アアイイ……』
と横筋違《よこすじかい》に往来《おおかん》ば突抜けて行きます。号外と同じ事で、この触声《おらびごえ》の調子一つで売れ工合が違いますし、情婦《おなご》の出来工合が違いますケニ一生懸命の死物狂いで青天井を向いて叫《おら》びます。そこが若い者のネウチで……。
しかも呼込まれる先々が大抵レコが留守だすケニ間違いの起り放題で、又、間違うてやりますと片身《かたみ》の約束の鯖《さば》が一本で売れたりします。おかげでレコも帰って来てから美味《うま》いものが喰えるという一挙両得になるワケで……。
それでも五六軒も大
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