るだろう。ところが事実は何でもない。何ともいえない人情に絡んだ憐れな話なんだ。
 ちょうどそれから丸一年経った明治四十二年の、やはり四月の中頃の事だった。むろん次から次に起る事件に逐《お》われて、金兵衛殺しなんか忘れている時分だったが……。
 雨はショボショボ降るし、事件も何もなし……というので、仲間と一緒に警視庁の溜りで雑談をしていると、給仕が面会人を取次いで来た。
「築地の友口愛子……大至急お眼に掛りたい……」
 と云って小さな名刺を一枚渡した。
 トタンにドキンとしたね。一年前の苦心をズラリと思い出しながら慌てて立上ったよ。コンナ場合に、コンナ調子でヒョッコリ面会を求めに来る事件の中の女は十中八九、何かしら重大な手がかりを持って来るものなんだ。
 仲間に冷やかされながら例の面会室に来てみると、疑いもない愛子がチャント丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った野暮《やぼ》ったい奥様風で、椅子に腰をかけている。よほど心配な事があると見えて、顔色が真青に窶《やつ》れている。おまけに妙にオドオドした眼付でこっちを見る表情に、昔のような人なつこい愛くるしさがアトカタもないようだ。
 占《し》めた……と
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