ために学校へ行けなくなった。それから色々苦労をして稼ぎながら、築地の簿記の夜学校へ這入っているうちに、半年振りに養家の残りの財産が自分のものになったから、煙草を買うたんびに思っていた君を名指しにして遊びに来た。これから時々来るから……といったようなお話で、お宅は芝の金杉という事でしたが……それはそれは御親切な……」
「……ふうん。それから、シッポリといい仲になったって訳だね」
 愛子は又耳元まで赤くなった。涙を一しずくポロリと膝の上に落した。
「うんうん。わかっているよ。だからあの時も、そのお客の事を俺に話さなかったんだね」
 愛子は丸髷を、すこしばかり左右に振った。シクリシクリと歔《しゃく》り上げ初めた。
「そうかそうか。そのお客だけがタッタ一人好いたらしい人だった事を、あの時は思い出さなかったんだね」
 愛子は微かに震えながら頭を下げた。多分|謝罪《あやま》っているつもりだったのだろう。俺は一膝乗り出した。
「そこでねえ。話は違うが、昨日《きのう》アンタはどこか、電車か何かの中で三人切りになった事があるかね。ほかの二人は男だった筈だが……」
 愛子はビックリしたように顔を上げた。
「どうして御存じ……」
「アハハ。この手紙に書いてあるじゃないか。どこだい、それは……」
「昨日《きのう》、伯父さんの法事をしに深川へまいりました」
「アッ。月島の渡船《わたし》に乗ったんだね。成る程成る程。その時にアンタと一緒に乗っていた二人の男の風体《ふうてい》を記憶《おぼ》えているかね」
 愛子は恐ろしそうに身体《からだ》を竦《すく》めた。俺が社会主義者の事でも調べていると思ったんだろう。例の黒眼勝《くろめがち》の眼をパチパチさせながら唇を震わした。
「妾は眼が悪う御座いますので、三尺も離れた方の風体《ごようす》はボーッとしか解りませんが……」
「わからなくともいいからアラカタの風采でいいんだ。二人とも紳士風だったかね」
「いいえ。一人は青い服を着た職工さんで、もう一人は黒い着物を着た番頭さんのような方でした」
「その職工みたいな男の人相は……」
 彼女はいよいよ恐ろしそうに椅子の中に縮み込んだ。
「あの……鳥打帽を……茶色の鳥打帽を眉深《まぶか》く冠っておられましたので、よくわかりませんでしたが、モウ一人の方はエヘンエヘンと二つずつ咳払いをして、何度も何度も唾をお吐きになりまし
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