た」
「アハハ。そうかそうか、それは色の黒い、茶の中折《なかおれ》を冠った、背の高い男だったろう。金縁《きんぶち》の眼鏡をかけた……」
愛子はビックリして顔を上げた。
「……どうして……御存じ……」
俺は直ぐに呼鈴《よびりん》を押して給仕を呼んだ。
「オイ。給仕、控室の石室《いしむろ》君にチョット来てもらってくれ」
「かしこまりました」
石室刑事は直ぐに来た。
「何だ何だ……ウンこの婦人かい。昨日《きのう》月島の渡船場《わたし》で一緒に乗ったよ。どうかしたんかい……ナニ。一緒に乗った職工かい、ウン知ってるよ。深川の紫塚《むらつか》造船所の製図引で大深泰三《おおふかたいぞう》という男だよ。社会主義者の嫌疑で一度調べた事がある。高等工業にいたとかいうがチョットお坊ちゃん風のいい男だよ。昨日《きのう》は俺の顔を見忘れていたんだろう。知らん顔をしていたっけが」
正直のところ、この時ぐらい狼狽した事はなかったね。社会主義者なんていうのは、見掛によらない敏感なもので、逃足の非常に早いものだという事がこの時分からわかっていたからね。
「ウン直ぐに行こう。重大犯人だ。君も一緒に来てくれ。詳しい事はアトから話す。アッ……いけない。愛子さん愛子さん」
愛子はウンと気絶したまま椅子から床の上へ転がり落ちてしまった。残忍な話だが、俺はその時に思わず微笑したよ。この気絶は彼女の話の真実性を全部裏書きしたようなものだったからね。
警察医が来て愛子を介抱している間に、俺達は紫塚造船所に乗込んで、机の曳出《ひきだし》を片付けている最中の大深を、有無を云わさず引っ捕えた。大深はその頃芽生えかけていた社会主義者のチャキチャキで幸徳秋水の崇拝者だった。目的のためには手段を択まずという訳で、露西亜《ロシア》へ行く旅費を得るために、製図屋仲間の評判から愛子の旦那の金兵衛に眼を附けて、愛子の口から様子を探ると、仕事用のニッケル鍍金《めっき》の四角い鉄棒を持って熱心に跟《つ》けまわしている中《うち》に、屏風《びょうぶ》を建てまわしたような材木置場で、絶好の機会に恵まれたので断然、絶対安全な兇行を遂げたんだね。
しかし大深はタッタ一度の馴染《なじみ》なもんだから愛子の近眼に気付いていなかったし、愛子の方も、そんな事までは打明けなかったんだね。だから愛子の例の通りの潤んだ、惚れ惚れとした眼付きでジイッ
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