いないのかい」
 愛子は丸髷に手を遣りながら淋しく笑った。
「ハイ。コンナような手紙が、よく男の方から参りますので、そのたんびに母親《おっかさん》に読んでもらっておりますが、この手紙の文句ばっかりは、わからないと母親《おっかさん》が云うもんですから……処々《ところどころ》拾い読みしてもらってもチンプンカンプンですから……ただ金兵衛さんの名前が所々《ところどころ》に書いてあって、社会主義者が死ぬっていうような事が書いてあるって云うもんですから、何だか怖くなりまして……ほかの方に読んで頂くのは剣呑《けんのん》だって母親《おっかさん》が云うもんですから、大急ぎで貴方に読んで頂きに……」
 俺は思わず一|丈《じょう》ばかりの溜息を吐《つ》いたよ。滑稽な気持ちなんかミジンも感じなかったから不思議だよ。これ程の恐ろしい作用《はたらき》を現わした愛子の、何も知らないでオドオドしている近眼を暫くの間茫然と見詰めていたね。
「ふうむ。あんたはこの手紙で見ると、金兵衛さんが死ぬる一個月《ひとつき》ぐらい前に、どこかの待合で、若いお客と差しでシンミリした事があるんだね」
 愛子の顔色が見る見る真青になった。この前に訊問した事をドウやら思い出したらしいんだ。それから又、忽ち耳の附け根まで赤くなったが俺の顔を見ながらオズオズと点頭《うなず》いたものだ。
「ね。あるだろう。思い出したろう」
 愛子はいよいよ真赤になって俯向《うつむ》いてしまった。俺は胸をドキドキさせながら彼女に対して訊問の秘術を尽し初めたが、彼女は手もなく釣り込まれてポツポツ話し出した。
「ハイ。やっと思い出しました。それは二十七八の若旦那風の人でした。待合ではオオさんと云っておりましたが、お名前は大深さんと云いましたか……お召物からお金遣いまでサッパリした方で、いいえ。手は両方とも職工らしくない、白い綺麗な手でした。お酒が少しばかりまわりますと、親切に色々と妾《あたし》の身上《みのうえ》をお尋ねになりましたので、何もかも真個《ほんと》の事をスッカリ話しました。金兵衛さんの事までもスッカリ……毎月二十五日が本郷の無尽講《むじん》の寄合なので、帳面とお金を持って行かれる。その帰りに電車で妾《あたし》の所へ見える事まで話しました。その若い方は何でも、信州の或るお金持の御養子さんで、東京へ来て高等工業学校へ這入ったが、養家が破産した
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