…そこに寝ているじゃありませんか。貴女《あなた》の背後《うしろ》の寝台に……エッ……そんなものは見えないって……? ……貴女は眼がドウかしているんじゃないですか。……ね。わかったでしょう。あいつですよ。ツイ今しがた先生に注射をしてもらったばかりなんです。ね、グーグー眠っているでしょう。
 何ですって……? ……あの支那人を僕の脅迫《きょうはく》観念が生んだ妄想だって云うんですか……? ……そ……そんな事があるもんですか。チャンとした事実だから云うんです。ね。御覧なさい。死人のように頬《ほっ》ペタを凹《へこ》まして、白い眼と白い唇《くちびる》を半分開いて……黄色い素焼みたいな皮膚《ひふ》の色をして眠っているでしょう。
 僕はあの顔色を見てヤット気が付いたのです。この留学生はキット支那の奥地で生れたものに違い無い。あの界隈《かいわい》で有名な、お茶の中毒患者に違い無いと……。
 イイエ。貴女は御存じ無い筈《はず》です。
 お茶に中毒した人間の皮膚の色は、みんなアンナ風に日暮れ方のような冷たい、黄色い色にかわるのです。光沢《いろつや》がスッカリ無くなってしまうのです。そうして非道《ひど》い不眠症に罹《かか》って、癈人みたようになってしまうのです。
 イヤ。それが普通のお茶とは違うのです。
 普通のお茶だったら僕なんかイクラ飲んだってビクともするんじゃありませんがね。あの留学生が持っている奴はソンナ生やさしいもんじゃありません。崑崙茶《こんろんちゃ》といって、一種特別のタンニンを含んだお茶から精製したエキスみたいなものなんです。ですからトテモ口先や筆の先では形容の出来ない、天下無敵のモノスゴイ魅力でもって、タッタ一度で飲んだ奴を中毒させてしまうんです。トッテモ恐ろしい、お茶の中のお茶といってもいい位な、お茶の中のナンバー・ワンなんです。
 その崑崙茶のエキスで作った白い粉末で「茶精」[#「茶精」は底本では「精茶」]っていう奴をあの留学生は、どこかに隠して持っているのです。どこに隠しているかわかりませんが……支那人の中には魔法使いみたような奴が多いのですからね。……そいつを僕の枕元の鎮静剤《ちんせいざい》の中に、すこし宛《ずつ》粘《ひね》り込んでいるんです。そうして誰にもわからないように、僕の生命《いのち》を取ろうとしているのです……僕は時々頭から蒲団《ふとん》を冠《かぶ》る癖《くせ》がありますからね。その隙《すき》に入れるんだろうと思うんですが……僕が頂いている鎮静剤はステキに苦いでしょう。おまけにプンと臭《にお》いがするでしょう。ですから「茶精」が仕込んで在るのが解らないんです。
 エッ……そんな悪戯《いたずら》をする理由ですか。
 それあ解り切っているじゃありませんか。貴女はまだ不眠症にかかった事が無いんですね。そうでしょう。……いつもかも、睡《ね》むくて困る……アハハ……だから不眠症患者の気持がわからないのですよ。
 ……こうなんです。アイツは僕が先生の注射のお蔭でグーグー眠っているのを見ると、妙に苛立《いらだ》たしくなって、癪《しゃく》に障《さわ》って来るのです。そうして終《しま》いには殺してしまいたいくらい憎らしくなって来るんです。
 イイヤ。そうなんです。これが不眠症患者の特徴なんです。つまり極端なエゴイストになってしまうんですね。いくら眠ろう眠ろうと思っても、思えば思うほど眠れない事がわかって来ると、だんだん気違いみたいな気持になって来るんですよ。……世界中の人間が一人残らず不眠症にかかって、ウンウン藻掻《もが》いている真中《まんなか》で、自分一人がグーグー眠れたらドンナにか愉快だろう……なんかと、そんな事ばっかりを、一心に考え詰めている矢先《やさき》に、横の方から和《な》ごやかな寝息がスヤスヤ聞えて来たりなんかしたら、最早《もう》トテモたまらなくなるんです。神経が一遍に冴え返ってしまって、煮えくり返るほど腹が立って来るんです。聞くまいとしてもその寝息が一つ一つにスヤリスヤリと耳の奥に沁《し》み込《こ》んで来る。そのたんびに腹立たしさがジリジリと倍加して行く。しまいにはその寝息の一つ一つが、極度に残忍な拷問《ごうもん》か何ぞのように思われて来て、身体《からだ》中にビッショリと生汗《なまあせ》がニジミ出て来るのです。そうして、その寝息をしている奴を殺すか、自分が自殺するか、二つに一つ……といったような絶体絶命の気持になって、あっちに寝返り、こっちに寝返りし初めるのです。アイツは僕のために、毎晩そんな気持を味わせられているんです。おまけに僕は肥厚性鼻炎なんですから、眠ると夜通しイビキを掻《か》くでしょう。その上に相手は個人主義一点張りの支那人と来ているんですから、一層たまらない訳でしょう。
 ですからアイツはその茶精を使って
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