いう上等の滋養分を与えながら、来がけよりも一層ユックリユックリした速度で、故郷へ連れて帰るのです。つまり日中を避《よ》けて、朝の間《ま》と夕方だけ馬を歩かせるので、あんまり速く馬を歩かせたり、モウ夏になりかけている日光に当てたり何《なん》かすると、眼をまわしてヘタバル奴が出来かねないからだそうです。
ところで、コンナ風にしてヤットの思いで、七八箇月ぶりに故郷に帰り着いても、まだ半死の重病人みたいになっている奴が居るそうですが、しかしどっちにしてもこの崑崙茶の味を占めた奴はモウ助からないそうです。完全なお茶の中毒患者になっているんですから、来年の正月過ぎになると、今一度飲みに行きたくて堪《た》まらなくなる……尤《もっと》もこれは無理もない話でしょう。支那人一流の毒々しいエロと、バクチと、酒池肉林式の正月気分に、ウンという程|飽満《ほうまん》したアトの富豪連ですから、そうした脱俗的なピクニック気分を起すのは、生理上むしろ当然の要求かも知れませんからね。
そこで又行く。その次の年も行く。度重なるに連れて、お茶仲間からは羨《うらや》ましがられるばかりでなく、お茶の勲爵士《ナイト》としての無上の尊敬を受けるようになる。崑崙仙士とか道人とかいったような特別の称号なんかを奉られて、仙人扱いにされるのだそうですが、しかし、何しろその一回の旅行費だけでも一身代かかる上に、頭も身体《からだ》も役に立たない廃人同様になって、あらゆる方向から財産を消耗する事になるのですから、余程の大富豪で無い限り、四五遍も崑崙茶を飲みに行くうちには、財産《しんしょう》をスッカラカンに耗《す》ってしまうものだそうです。又、それ程左様にこの崑崙茶が、古今無双の、生命《いのち》がけの魅力を持っているらしい事は、モウ大抵おわかりになったでしょう。
ドウデス、婦長さん、スバラシイ話でしょう。ヤンキー一流の贅沢《ぜいたく》だって、ここまで徹底してはいないでしょう。ハハハ……。
ところがここに一つ困った問題が残っているのです。それはその身代を耗《す》ってしまった、中毒患者の崑崙仙士君です。むろん又と崑崙茶を飲みに行く資力なんか無いのですが、しかしその味だけはトコトンまで腹《はらわた》に沁み込んでいてトテモトテモ諦められない。そこで仕方なしに、せめてアノ神《しん》凝《こ》り、鬼《き》沈《しず》んだスバラシイ高踏的な気分だけでも味わいたいものだというので、古馴染《ふるなじみ》の茶店から「茶精」というものを買って飲むんです。これは今お話した富豪連が、崑崙山の麓で使い棄てた緑茶の出《だ》し殻《がら》から精製した白い粉末で、相当高価なものだそうですが、それでも我慢して、普通のお茶に交《ま》ぜて服《の》んでみると、芳香や風味は格別無い代りに、純粋のエキスですから神気の冴える事は非常なものです。毎日毎夜|打《ぶ》っ通《とお》しに眠れない。そうして、しまいには昼も夜もわからない、骨と皮ばかりの夢うつつみたいになって死んで行く奴が多い。しかも支那の事ですから、阿片と同様に取締りが絶対不可能と来ている。中には崑崙茶の味なんか知らないまま、見様見真似に「茶精」の味ばかりに耽溺《たんでき》して、アッタラ青春を萎縮させてしまう青年少女も居るといった調子ですが、今そこに寝ている支那留学生は、たしかにその一人に相違ないのです。僕がこの病院に入院して以来、注射を受けなければ絶対に眠れないようになったのは彼奴《きゃつ》のせいに相違無いです。
……ね。婦長さん。ですから済みませんが僕の室《へや》を換えて下さい。イエイエ。口実じゃ無い[#「無い」は底本では「無ない」と誤記]のです。僕はソンナ恐ろしいお茶の中毒患者になって、青春を萎《しぼ》ましてしまいたくないのです。どうぞどうぞ後生ですから……サ……早く……そいつが眼を醒まさないうちに……。
ナ……何ですって……。支那の魔法ですって……?……。
ヘエ……貴女がお祖父《じい》様からお習いになった支那の魔法の中に、飛去来術《ひきょらいじゅつ》というのがある。ヘエ。それはドンナ魔法ですか。
イイエ。初めて聞いたんです。全く知らないんです。飛去来術なんて……ヘエ。その魔法を応用したら、僕の煩悶《はんもん》なんか他愛なく解決されてしまう。ホントウですか……ヘエ。コンナ密室でしか行えないから都合がいい。ヘエ。貴女なら嘘は仰言《おっしゃ》らないでしょう。教えて下さい。ヤッテ見て下さい。その飛去来術っていうのを……どうするのですか。
眼を閉じている……いいです。閉じています。……そうして一から十まで数える……支那の数え方で……ええ。知ってますとも。大きな声で……よろしい。承知しました。いいですか数えますよ。
……イイイ……。アルウ……。……サンン……。スウウ……。
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