です。ところでその猿が又、実によく仕込んだもので、そんなお茶の大木の梢《こずえ》にホンノちょっぴり芽を出しかけている、新芽の中の新芽ばかりをチョイチョイと摘《つ》み取ると、見返りもせずに人間の手許へ帰って来るのだそうです。
そこでソンナような冒険的な苦心をした十人か十四五人の茶摘男が、めいめいに一握りか二握りのお茶の新芽を手に入れると、大急ぎで天幕《テント》張りの露営地に帰って来ます。そうすると待ち構えていた茶博士……つまりお茶湯《ちゃのゆ》の先生たちですね。それが崑崙茶の新芽を恭《うやうや》しく受取って、支那人一流の頗付《すこぶるつ》きの念入りな方法で、緑茶に製し上げるのです。それから附近の清冽な泉を銀の壺に掬《く》んで、崑炉《こんろ》と名づくる手捏《てづく》りの七輪《しちりん》にかけて、生温《なまぬる》いお湯を湧かします。そうしてその白湯《さゆ》を凝《こ》りに凝《こ》った茶碗に注《つ》いで、上から白紙の蓋をして、その上に、黒い針みたような崑崙の緑茶を一抓《ひとつま》みほど載せます。そうしてその白紙の蓋がホンノリと黄色く染まった頃を見計《みはか》らって、紙の上の茶粕を取除《とりの》けると、天幕《テント》の中に進み入って、安楽椅子の上に身を横たえた富豪貴人たちの前に、三拝九拝して捧げ奉るのです。
富豪貴人たちはそこで、その茶器の蓋をした白紙を取除いて、生温《なまぬる》い湯をホンノ、チョッピリ啜《すす》り込むのです。むろん一口味わった時には、普通の白湯《さゆ》と変りが無いそうですけれども、その白湯を嚥《の》み下さないで、ジッと口に含んだままにしていると、いつとはなしに崑崙茶の風味がわかって来る。つまり紙の上に載っていた緑茶の精気が、紙を透した湯気《ゆげ》に蒸《む》されて、白湯の中に浸み込んでいるのだそうですが……。
……ドウデス。ステキな話でしょう。それはもう何とも彼《かん》ともいえない秘めやかな高貴な芳香が、歯の根を一本一本にめぐりめぐって、ほのかにほのかに呼吸されて来る。そのうちにアラユル妄想や、雑念が水晶のように凝《こ》り沈み、神気が青空のように澄み渡って、いつ知らず聖賢の心境に瞑合《めいごう》し、恍然《こうぜん》として是非を忘れるというのです。その神々《こうごう》しい気持よさというものは、一度|味《あじわ》ったらトテモトテモ忘れられないものだそうです。
ええ。無論そうですとも。夜になっても眠られないのは、わかり切った事ですが、しかし富豪たちはチットも疲れを感じません。影のように附添って介抱する黄色い着物の茶博士たちが、入れ代り立ち代り捧げ持って来る崑崙茶の霊効でもって、夜も昼も神仙とおんなじ気持になり切っている。神《しん》凝《こ》り、鬼《き》沈《しず》み、星斗と相語り、地形と相抱擁《あいほうよう》して倦《う》むところを知らず。一杯をつくして日天子《にってんし》を迎え、二杯を啣《ふく》んで月天子《げってんし》を顧みる。気宇|凜然《りんぜん》として山河を凌銷《りょうしょう》し、万象|瑩然《えいぜん》として清爽《せいそう》際涯《さいがい》を知らずと書物には書いてあります。
けれどもその間は、お茶の味をよくするために食物を摂《と》りません。ただ梅の実の塩漬と、砂糖漬とを一粒|宛《ずつ》、日に三度だけ喰べるのですから、富豪たちの肉体が見る見る衰弱して行くのは云う迄もない事です。安楽椅子に伸びちゃったまま、黄色い死灰《しかい》のような色沢《いろつや》になって、眼ばかりキラキラ光らしている光景は、ちょうど木乃伊《ミイラ》の陳列会みたいで、気味の悪いとも物凄いとも形容が出来ないそうです。
ところが、おしまいにはその眼の光りもドンヨリと消え失せてしまって、何の事はないキョトンとした空《から》っぽの人形みたいな心理状態になる。身動きなんか無論出来ないのですから、お茶は介抱人に飲ましてもらう。その時のお茶の味が又、特別においしいのだそうで、身体《からだ》中がお茶の芳香に包まれてしまったようなウットリとした気持になるのだそうですが、やはり神経が弱り切っているせいでしょうね。その代りに糞《くそ》も小便も垂れ流しで、ことに心神|消耗《しょうもう》の極、遺精を初める奴が十人が十人だそうですが、そんなものは皆、茶博士たちが始末して遣るのだそうで、実に行届いたものだそうです。
こうして二三週間も経つうちに、最初は麓《ふもと》の近くに在った新茶の芽が、だんだんと崑崙山脈の高い高い地域に移動して行きます。それに連れて採取が困難になって来る訳で、やがて新茶が全く採れなくなったとなると、茶摘男と茶博士が一緒になって、その生きた死骸みたいに弱り切っている富豪貴人たちを、それぞれに馬車の中へ担《かつ》ぎ込んで、牛酪《ぎゅうらく》や、骨羹《こっかん》なぞ
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