した手で、又イジクリまわした郵便物から、俺の眼にトラホームが伝染しそうで怖くて仕様がない。小説書きが眼を奪われたら、運の尽きと思うから、手を消毒する石炭酸と、点眼薬と、黒い雪眼鏡を万田先生から貰って、念入りに包んで送ってくれ。黒い眼鏡はむろん郵便配達手君に遣るのだ。あの郵便配達手君が来なくなったら、俺と社会とは全くの絶縁で、地の底に居る虫が呼吸している土の穴を塞がれたようなものだ。俺は精神的に呼吸することが出来なくなるのだからね。その郵便配達手君は、背が高くて人相が悪いが、トテモ正直な、好ましい性格の男らしい。郵便屋だって眼が潰れたら飯の喰い上げになるのだから気の毒でしようがない。云々…………」
 そういった手紙の返事として妻から送って来たのが、この点眼薬と、消毒薬と黒眼鏡であったのだ。
 ところが、それから旧正月へかけて、今までにない大吹雪が続いて、さしもの配達狂の郵便配達手が二三日パッタリと来なくなった。私も亦《また》、仕事に熱中して、新聞や手紙を読む閑暇《ひま》が無かったので忘れるともなく忘れていたが、その中《うち》に、その二三日目の真夜中になると、私の寝ている窓をたたいて、私を呼び起すものがあった。私がビックリして飛び起きながら窓を開くと、ドッと吹込む吹雪と共に、松明《たいまつ》の光りが二つ三つチラチラと渦巻いて見えた。その松明の持主の顔はわからないが、皆|藁帽子《わらぼうし》を冠り、モンペと藁靴を穿いて、ちょうど昔の源平時代の落人狩りを忍ばせる身ごしらえであった。
「先生。先生。吉で御座います」
「おお。吉兵衛どんか。何しに来なすったか。この真夜中に……」
「ほかでも御座いませぬ。昨日か一昨日、ここへ郵便屋の忠平が来はしませんでしたろうか」
「……忠平……ああ、あの郵便屋さんは忠平というのか」
「さようで御座います先生様。参りませんでしたろうか」
「いいや。この二三日来なかったようだがね」
 松明連中が吹雪の中で顔を見合わせた。
「ヘエ。やっぱり……それじゃ……」
「……かも知れんのう……」
 私たちの話声は山々を轟《とどろ》き渡る吹雪の風に吹き散らされて、ともすれば松明の光りと共に消え消えになって行くのであった。
「まあこちらへ這入って来なさい。そこの戸は押せば開くから……」
 皆ドカドカと土間へ這入って来た。
「おお。暖《ぬく》い暖い」
「成る程なあ。これが温突《オンドル》チューもんですか先生……」
 皆ガヤガヤと話し出した。私は本箱の片隅から老酒《ラオチュー》を取出して皆に、すこしずつ飲ましてやった。
「あっアア。腹に沁みる沁みる。良《え》え酒でがすなあ先生。これは……」
「ウン。マッチで火を点けるとポーッと燃えるでな。あんまり飲むと利き過ぎるてや。残りはアンタ等に遣るから、家へ持って帰って、ユックリ飲むがええ」
「それあドウモはあ。勿体《もったい》のうがす」
 皆の話すところによると今日初めて名前を聞いた配達手の忠平は、一昨日の大吹雪の朝、郵便局を出た切り帰って来ないのだという。
 その朝は郵便物が非常に少くて、東京の出版屋から私の処へ送って来た二百円の価格表記郵便物と、新聞が二通あった切りだったので、若い局長さんは山道が雪崩《なだ》れで危いから今日は配達を見合わせてはドウかと云って止めにかかったものであったが、一徹者の忠平は肯《き》かなかった。黙って二通の郵便物を持って、四里の雪の山道を、私の処へ配達すべく町の居酒屋でコップ酒を呷《あお》って出て行ったが、それっきり帰って来ない。そこでもしかしたら、最近に妻君と喧嘩別れをして、後《あと》に子供も何も無い酒飲みの忠平が、ヤケクソになって二百円を持逃げしたのではないかという疑いが掛かった。そこで警察からの命令で猟師の吉兵衛が先達に立って、村の区長さんと助役さんと、忠平の遠縁にあたる青年会長が揃って、私の処へ様子を聞きに来たのだという。実は巡査さんも来ると云っていたが、こんな吹雪の烈しい道は、素人には危いので、皆して留めて来たという話であった。

 私は眼がスッカリ醒めてしまったばかりでなく、ジッとして皆の話が聞いていられなくなった。
 忠平が大酒飲みであったろうが、細君と喧嘩別れをしていようが、そんなことは私にとって問題でなかった。それよりもこの四箇月の間、毎日毎日器械のように私の処へ郵便物を持って来てくれたあの金鵄勲章の忠平が、私へ送って来た二百円の金を拐帯《かいたい》して逃げ失せるような男とは、どうしても思えなかった。キットあのトラホームのために、眩《まぶ》しい雪道を踏迷うか、谷川へ落ちるかして、どこかで凍え死んでいるに違いないであろうと思うと、立っても居ても居られなくなった。
 その時の私は創作に夢中になってアタマが極度に疲れていたせいであったろう。悲しい
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング