といえば普通の人の何万倍も悲しく、嬉しいといえば又、一般人の何万倍も嬉しいような頭脳《あたま》になっていた。だから忠平のあの薄赤く爛れたトラホームの眼を思い出し、折角《せっかく》のあの黒眼鏡が間に合わなかったことを考えまわすと、もう胸が一パイになって、涙がポロポロと頬にあふれ出して仕様がないのであった。
私は直ぐに立上って身支度を整え、兼て用意のゴム長靴を穿いて出かけようとしたが、そうした私の勢込んだ態度を見た四人の村人は一斉に眼を丸くして押止めた。
「飛んでもねえことですよ先生。この雪の夜道を慣れねえ先生が、どうして歩けますか。第一カンジキを持たっしゃるめえ」
「忠平は元気な男ですから、そこいらの山道で死ぬような男じゃ御座いませぬわい。キット二百円の金を見て気が変って……」
「馬鹿ッ……」
私は忽《たちま》ち息苦しい程、激昂してしまった。
「貴様たちは忠平の性格を知らないんだ。ドンナ人間でも金さえ見れば性根が変るものと思うと大間違いだぞッ」
「そんなに腹を立てさっしゃるものでねえ。私等の云うことを聞いて、ちゃんと家に待って御座らっしゃれ。あっし等が手を分けて探して来ますから……」
「イヤ。そんなことをしちゃ忠平に済まん。是非とも僕が自分で行く」
「駄目だ駄目だ。済むとか済まんとかいう話でねえ。先生はまだ吹雪の恐ろしさを知らっしゃらねえから駄目だ。無理に行かっしゃると今度は先生が谷へ落ちさっしゃるで……」
こんな問答をして無理やりに私を押付けながら、四人の村人が逃げるように私の寝室を出て行った。だから私は仕方なしに一先ず黙って村の人々を帰しておいて、あとから一人でゴム長靴を穿き、天鵞絨《ビロード》の襟巻で頬をスッポリと包み、今は悲しい思い出の新しい黒眼鏡をかけながら外に出た。
その時はモウ夜がシラジラと明けかかっていたので、私はチョット引返して持っていた懐中電燈を机の横に置いて出て来た。
青白い海底のような雪道を踏出した時、私は忠平の死を確信していた。
……忠平は二百円の価格表記郵便を見て、これは是非とも早く私の処へ届けなければならないものと考えて、ただ、それだけのために無理矢理に吹雪の道を踏出したものに相違ない。そうして途中で真白い雪道ばかり凝視して来たためにトラホームが痛み出し、眼を眩《くら》まされてしまったのを、なおも持って生まれた頑固一徹から押し進んで来たために、職に殉じたものに違いない…………。
そう思うと私は、タッタ一人で行く雪の道の危険を忘れて一歩一歩と村の人々の足跡を追い初めた。底の方の凍り固まった、上《うわ》ッ面《つら》のフワフワしたメリケン粉のようにゆらめく雪を、村の人々が踏み固めて行った痕跡が、早くも凍りかかっている上から踏み破り踏み破り蹴散らし蹴散らし急いで行くので、狭い絶壁の上の岨道を行くのに、さほどの困難は感じなかった。それよりも一面に蔽われた深い谷底の雪の下を轟々《ごうごう》と流れる急流の音が、冷めたい、憂鬱な夜行列車のような響を立てているのが、時々聞えて来るのには、何故ということなしに肝を冷やした。渦巻|烟《けむ》る吹雪に捲かれて、どこにも手がかりの無い岨道を踏み外したが最後、二度と日の目を見られないと思うと、何故とはなしに身体《からだ》が縮《すく》んで、成るたけ谷に遠い側の足跡を拾い拾い急いで行った。
しかしちっとも寒くはなかった。温突《オンドル》の温もりが、まだ身体から抜け切れないうちに、慣れない雪道を歩いて身体が温まり初めたからであった。
時々|立佇《たちど》まって仰ぎ見ると、雪空は綺麗に晴れ渡って、眼も遥かな頭の上の峯々には朝日が桃色に映じていた。その峯々から蒸発する湯気が、薄い真綿《まわた》のような雲になって青い青い空へ消え込んで行くのが、神々《こうごう》しい位、美しかった。しかしこれに反して私が辿《たど》って行く岨道は、冷たいペパミント色の薄暗《うすやみ》に蔽われて、木の下の道なぞは月夜のように暗かった。時々ドドーオオン、ドドーオンという遠雷のような音が聞こえて来るのは、どこかの峯の雪崩《なだ》れの音であったろうか。
しかし私にはソンナ物音を聞き分けてみるなぞいう心の余裕が、いつの間にか無くなっていた。
私は間もなく雪の岨道を歩く困難が、想像のほかであることを思い知り初めた。その新しく辷《すべ》り落ちて来た軽い、深い粉末の堆積の中に落ち込み落ち込み、掻き分け掻き分け進んで行くうちに瞼がヒリヒリと痛くなり、鼻の穴がシクシクと疼《うず》き出し、息も絶え絶えになって一《ひ》と休みすると、忽ち零下何度の酷寒を感じ初めるので、又も匐《は》うようにして歩き出す苦しみは、経験のある人でなければわからない。
私はとうとう向うへ行く勇気も、後へ引返す元気も全く無くなって、雪の
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