中へ半身を斜めに埋めたまま、あたりの真白な、荘厳を極めた樹氷を見まわした。そうして心の底から死の戦慄を感じながら、半泣きになって叫んでみた。
「おおおおお――いいい」
「…………オオオ…………」
 それは谷々の反響であったか、人間の返答であったかわからない、遠い微かな声であった。私は又叫んだ。
「おおおおお――いいいイ」
「オオオ――イイイ」
 たしかに人間の声であった。……ヤレ助かった……と思うトタンに私の頭の中で、思い付いたままペンを投出して書きかけにして来た原稿の文字が幾行も幾行も並んで辷って行った。
 私は、それからドンナに叫び立てながら、ドンナに苦しみ※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて雪の道を掻き分けて行ったか記憶しない。やがて向うから最前の猟師の吉兵衛を先に立てた四人の一行が、引返して来るのに出会った時、黒い眼鏡も何もどこかへ落してしまった私は、グッタリとなって雪の中へ突伏した。
「ウワア、これあマア先生、カンジキも穿かねえで、どうしてここまで御座った」
「あぶねえことだった。こんなことをさっしゃる位なら、私たちが一所《いっしょ》にお供して来るところだったに……」
「まったくだ。忠平の死骸が見付かって、あそこにグズグズしていねえけれあ先生は、このまま行倒おれにならっしゃるところだったによ」
「忠平の死骸が、先生を助けたようなものでねえか、ハハハ」
「まあまあこちらへ御座らっせえ。肩にかけて上げまするで……」
「これを飲まっせえ。帰りに貰って来た支那焼酎の残りでがす」
 火のような老酒《ラオチュー》の一《ひ》と口は、私を蘇らせ、元気づけるに充分であった。そうして、それから五町ばかり先の岩の根方に横たわっている忠平の死骸の処まで、吉兵衛老人の肩につかまって、よろぼいよろぼい歩いて行った。綿のように疲れた身体を強いアルコール分がグングン馳けめぐるために、谿谷全体がぐるんぐるんと回転するように思われる両眼を見据えて、忠平の死顔を夢のように覗き込んだ。そのうちに瞼がシクシクと痛み出して、視界がボーッとなって行くのを又コスリ直して見直した。
 忠平の死骸はモウ雪の中から引ずり出されていた。古びた赤縞綿ネルの布片《ぬのきれ》の頬冠りから、眼と口をシッカリと閉じたしかめ顔から、剥げチョロケた紺小倉の制服から、半分脱げかかった藁靴の爪先まで一面に、微細な粉雪が霜のように凍て付いて、銀色の塑像のような、非人間的な感じを現わしていたが、その左手の二本しかない指で、鞄の口をシッカリと抓《つま》んで胸の上に抱いていた。その鞄の口を開けてみると中には東京の新聞が二つと二百円入りの価格表記の袋が、チットも濡れずに這入っていた。その死顔には何等の苦悶のあとも無く、あの人相の悪い、頑固一徹な感じは、真白い雪の中に吸い取られてしまったのであろう。あとかたもなく消え失せて、代りにあの国宝の仏像の唇に見るような、この世ならぬ微笑が、なごやかに浮かみ漂うているのであった。
 奇蹟を見た人間でも、これ程に驚き恐れはしなかったであろう。
 それは零下何度の寒さのせいではなかった。私は全身の関節が、ガタガタと震え戦《おのの》くのを感じながら、眼をマン丸く見開いて、その神々しい死顔を凝視した。そうして今朝、忠平の失踪を聞いて、その横死を確信した一刹那から、こうして雪の中を夢中になって歩いて来て、忠平の死顔を発見するに到るまでの私の気持を繰返し繰返し考え直してみた。

 それは私が今日まで一度も経験したことのない、私の心理上に起った一つの大きな奇蹟であった。生命の本質を物質の化学作用に過ぎないものと信じ、露西亜《ロシア》流の唯物弁証法にカブレて人間の誠意とか、忠孝の観念とか、崇拝心とかいうものを極度に冷眼視し、軽蔑した私が、どうして忠平の義務心を確信し、こうした横死を憂慮して無我夢中になり、生命《いのち》がけでここまで辿って来たか。それは忠平の死と共に、私の生涯にとって又とない大きな大きな奇蹟以外の何ものでもなかった。
 すべては唯物哲学を以て弁証することが出来る。しかし生命、もしくは生命の波動である精神ばかりは人間の発明した科学では説明出来ない。私は今まで人間の精神は、物質によってのみ支配されるものと信じて来た。ところが、私は今朝から、精神そのものに支配されている精神そのものの偉大崇高さばかりを、眼の前に凝視しつづけて来ていたのだ。
 そう気が附くと同時に、私は立っていることが出来なくなった。全身をワナワナガタガタと戦かし、歯の根をカチカチと鳴らしながら、ぐたぐたと雪の中に両膝を突いて坐り込んだ。しっかりと合掌しながら、改めて忠平の死体を見直した。
 猟師の吉兵衛老人を初め三人の男も、手に手に被《かぶ》り物を取除けて、頭を垂れて合掌した。

前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング