内容を一パイに渦巻かせていた私はただ「ああ」とか「うう」とかいったような言葉にならない返事をして、ちょっと頭を下げる位が関の山であった。「御苦労さん」なぞいう挨拶がましいことを云ったことは一度もなかったのだから、金鵄勲章の配達手君にとっては嘸《さぞ》かし傲慢な、生意気な青二才に見えたであろう。
 その中《うち》に私の創作の方はグングン進行して、遠からず脱稿しそうになって来たので、いささか安心したのであろう。或る寒い朝のことフッと気が付いてペンを投げ棄て、窓の外を覗いてみると、外は一面の樹氷《じゅひょう》で、その中にチラホラと梅が咲いているのに驚いた。最早《もう》、新の正月が過ぎて、大寒に入っているのであろう。
 私は毎日、仕事に疲れて来ると、思い出したように外に出て、温突《オンドル》の下に薪をドシドシ投込み、寝室の中を息苦しい程熱くして、夜の寒気に備えるようにしていたものであるが、その間も頭の中では創作のことばかり考えていたので、コンナに雪が深くなっていようとは夢にも気が付かずにいた。まったくこの谿谷は、冬中雪に封鎖《とざ》されているものらしかった。
 しかし、それでも愚かな私は、その零下何度の雪の中をキチンキチンと毎日、職務を守って来るあの郵便配達手君の努力に対しては、全然、爪の垢ほども考え及ばなかった。これは万事便利ずくめに育っている都会人の特徴であったろう。思えば都会人というものは生れながらにして民百姓の労苦を知らない残忍な性格を持っていると云っていい。
 のみならず私はこの郵便配達手君を一種の白痴ではないかとすら考えていた。生れながらに両親を喪《うしな》い、この我利我利道徳一点張りの世の中に曝《さら》されて、眼も口も開かぬくらいセチ辛い目にイジメ附けられたお蔭で、人間一切の美徳や仁義孝義を、人間本来の我利我利心理を包むオブラートかカプセルぐらいにしか考えていなかった私は、こうした郵便配達手君の郵便物に対する生《き》一本の単純な誠意、もしくは生命《いのち》がけの冒険で雪を押分けて運んで来る正義観念を理解し得よう筈がなかった。多分それは自分の生活を擁護するための熱意で、局長の御機嫌を取り、村人の信用を博するために骨を折っている一種の哀れむべき自家広告術ぐらいのものであろう。さもなければ愚鈍な、単純な人間によく見受ける一種の職業偏執狂で、この配達手君の場合では一種の配達|偏執狂《マニア》ともいうべきものではないか! ぐらいにしか考えていなかった。
 しかし、こうした私の利己的な、唯物弁証的な考え方は、間もなく打《ぶ》っ突かった一つの大きな奇蹟のために、あとかたもなく打ち壊されて、それこそ立っても居ても居られぬくらい狼狽させられなければならなくなった。

 旧正月の四五日前の或る大雪の朝であったと思う。
 例によって例の配達手君が置いて行った一塊の小包を開いて見ると、厳重に包装した木箱の中から、鋸屑《のこくず》に埋めた小さな二つの硝子《ガラス》瓶が出て来た。その一つには石炭酸と貼紙がしてあり、今一個の瓶は点眼用となっていて、何の貼紙もしてない。そのほかに安っぽい筒に入れた黒色のセルロイド眼鏡が一個出て来た。
 私は思い出した。それはツイ二週間ほど前のことであった。いつもより、すこし遅目に這入《はい》って来た郵便配達手君を、何気なく振返って目礼を交した時に、その瞼がヒドク爛《ただ》れて、左右の白眼が真赤に充血しているのを発見したので、私はハッとして思わず口を利いたのであった。
「オヤ。アンタは眼が悪いかね」
 配達手君は今一度、念入りに敬礼した。
「ハイ。トラホームで御座います」
 私はイヨイヨ心の中で狼狽した。
「ナニ。トラホーム。ずっと前からかね」
「ハイ。古いもので御座います」
「医師《いしゃ》に見せたかね」
「ハイ。見せても治癒《なお》りませんので! ヘエ」
「それあイカンね。早く何とかせぬと眼が潰れるぜ」
「ヘエ。このような大雪になりますと、眼が眩《まば》ゆうて眩ゆうてシクシク痛みます。涙がポロポロ出て物が見えんようになります」
「ふうむ。困るな」
 無愛想な私は、それっきり何も云わないまま、原稿紙と参考書の堆積に向き直って、セッセと仕事にかかったので、郵便配達手君も、そのまま敬礼して辞し去ったらしい。
 私が郵便配達手君と言葉を交したのは、これが、最初の、最後であった。むろん名前なんかも問い試みるようなことをしなかった。
 しかし私はその翌る日の大雪に、通りかかった吉という五十歳近い猟人に一通の手紙を托《たく》した。その内容は故郷の妻に宛てたもので大要次のような意味のものであった。
「今の俺の仕事場に一人の郵便配達手が来る。その郵便配達手君はトラホームにかかっていて、けんのんで仕様がない。そのトラホームをイジクリまわ
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