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夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)岨道《そばみち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丸|一《ひ》と冬を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
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私は若い時分に、創作に専心したいために或る山奥の空家に引込んで、自炊生活をやったことがある。そうしてその時に、人間というものの極く僅かばかりの不注意とか、手遅れとかいうものが、如何に深刻な悲劇を構成するものであるかということをシミジミ思い知らせられる出来事にぶつかったものである。
つまり私は、そうした隠遁生活をして、浮世離れた創作に熱中していたために、法律にかからない一つの殺人罪を犯したのであった。そうして私の良心の片隅に、生涯忘れることの出来ない深い疵《きず》を残したのであった。
その私が隠遁生活をしていた場所というのは、山の麓の村落から谿谷の間の岨道《そばみち》を、一里ばかり上った処に在る或る富豪の別荘で、荒れ果てた西洋風の花壇や、温突《オンドル》仕掛にした立派な浴室附の寝室が在ったが、私は、その枯れ残った秋草の花の身に泌むような色彩を見下す寝室の窓の前に机を据え、米や塩や、乾物、缶詰なぞいう食料品を多量に運び込み、温突《オンドル》用の薪を山積して、丸|一《ひ》と冬をその中で過す準備を整え、毎日毎日ペンを走らした原稿紙が十枚十五枚と分厚く溜まるのを、吝《けち》ん坊《ぼ》が金を溜めるような気持で楽しんでいた。
もちろん村役場に寄留届も出さず、村の区長さんへの挨拶も略していたが、しかしその村から三里ばかり離れた町の郵便局には、自身でわざわざ出頭して、局長に面会し、郵便物の配達を頼むことを忘れなかった。何故かというと私はドンナに辺鄙《へんぴ》な処に居ても、新聞を見ないと、その一日が何となく生き甲斐の無いような気がする習慣が付いていたので、ほかの手紙や何かはともかく、五|厘《りん》切手を貼った新聞だけは必ず、間違いなく届けてもらえるように頼んでおいた。
その郵便局の局長さんは、まだ二十代の若い人であったが、話ぶりを聞くとそこいらでも一流の文学青年らしく、あまり有名でもない私の名前をよく知っていて、
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