骸骨の黒穂
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)人気《にんき》
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(例)浅黄|木綿《もめん》の小旗が、
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(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り
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まだ警察の仕事の大ザッパな、明治二十年頃のこと……。
人気《にんき》の荒い炭坑都市、筑前《ちくぜん》、直方《のうがた》の警察署内で起った奇妙な殺人事件の話……。
煤煙に蔽われた直方の南の町外れに、一軒の居酒屋が在った。周囲は毎年、遠賀《おんが》川の浸水区域になる田圃《たんぼ》と、野菜畑の中を、南の方飯塚に通ずる低い堤防じみた街道の傍にポツンと立った藁葺小舎《わらぶきごや》で、型の如く汚れた縄暖簾《なわのれん》、軒先の杉葉玉と「一パイ」と染抜いた浅黄|木綿《もめん》の小旗が、町を出外れると直《す》ぐに、遠くから見えた。
中に這入《はい》ると居間兼台所と土間と二室《ふたま》しかない。その暗い三坪ばかりの土間に垢光りする木机と腰掛が並んで右側には酒樽桝棚、左の壁の上に釣った棚に煮肴《にざかな》、蒲鉾《かまぼこ》、するめ、うで蛸《だこ》の類が並んで、上《あが》り框《かまち》に型ばかりの帳場格子がある。その横の真黒く煤《すす》けた柱へ「掛売《かけうり》一切《いっさい》御断《おことわり》」と書いた半切《はんぎり》が貼って在るが、煤けていて眼に付かない。
主人は藤六《とうろく》といった六十がらみの独身者の老爺《おやじ》で、相当|無頼《なぐれ》たらしい。黥《いれずみ》を背負っていた。色白のデップリと肥った禿頭《はげあたま》で、この辺の人間の扱い方を知っていたのであろう。坑夫、行商人、界隈の百姓なぞが飲みに来るので、一パイ屋の藤六藤六といって人気がよかった。巡査が茶を飲みに立寄ったりすると、取っときの上酒をソッと茶碗に注《つ》いだり、顔の通った人事係《おやかた》が通ると、追いかけて呼び込んで、手造りの濁酒の味見《きき》をしてもらったりした。
この藤六|老爺《おやじ》には妙な道楽が一つあった。それは乞食を可愛がる事で、どんなにお客の多い時分でも、表口に突立って這入らない人間が在ると、藤六は眼敏《めざと》く見付けて、眼に立たないように何かしら懐中《ふところ》から出してやって立去らせるのであった。立去るうしろ姿を見ると老人、女、子供は勿論のこと血気盛んな……今で云うルンペン風の男も交っていた。
お客の居ない時なんぞは、母子《おやこ》連れの巡礼か何かに、何度も何度も御詠歌を唱わせて、上口《あがりぐち》に腰をかけたまま聞き惚れているような事がよくあった。そのうちにダンダン感動して来ると、藤六の血色のいい顔が蒼白く萎《しな》びて、眉間に深い皺《しわ》が刻み出されて、やがてガックリと頸低《うなだ》れると、涙らしいものをソッと拭いているような事もあった。そんな場合には巡礼に一升ぐらいの米と、白く光るお金を渡しているのが人々の眼に付いた。
麦の穂が出る頃になると藤六は、やはり店に人の来ない時分を見計らって、家の周囲の麦畑へ出て、熱心に麦の黒穂《くろんぼ》を摘んでいる事があった。これも藤六|老爺《おやじ》の一つの癖といえば云えたかも知れないが、しかし近所の人々は、そうは思わなかった。やはり仏性《ほとけしょう》の藤六が、閑暇《ひま》さえあればソンナ善根をしているものと思って誰も怪しむ者なんか居なかった。
とにもかくにもこの藤六|老爺《おやじ》が居るお蔭で、直方には乞食が絶えないという評判であったが、実際、色々な乞食が入代り立代り一パイ屋の門口に立った。「あの乞食酒屋で一パイ」とか「乞食藤六の酒は量りが良《え》え」とか云われる位であった。
その名物|老爺《おやじ》の藤六が昨年……明治十九年の暮の十一日にポックリと死んだ。
炭団《たどん》を埋めた小火鉢の蔭に、昨夜喰ったものを吐き散らして、夜具の襟を掴んだまま、敷布団から乗出して冷めたくなっているのが、老爺《おやじ》の心安い巡回の巡査に発見されたので、色々と死因が調べられたが別に怪しい点は一つも無かった。
ただ一つ、盗まれたものはないかと家中《うちじゅう》を調べているうちに、押入の隅に祭ってある仏壇らしいものに線香も何も上げてない。その代りに白紙に包んだ麦の黒穂《くろんぼ》の、枯れたのが、幾束も幾束も上げてあるのが皆を不思議がらせた。それからその仏壇の奥の赤い金襴《きんらん》の帷帳《とばり》を引き開いてみると、茶褐色に古ぼけた人間の頭蓋骨が一個《ひとつ》出て来たので皆……ワア……と云って後退《あとしざ》りした。しかし、それとても別段に藤六の死因とは関係がありそうに思えなかった。つまるところ、藤六の風変りな信仰であったろう。それとも藤六がどこかで発見した無縁仏の骸骨を例の仏性《ほとけしょう》で祭ってやっていたものかも知れない。黒穂《くろんぼ》の束も、何の意味もなしに、持って来ただけ始末して仏様に供養していたのかも知れない……といったような話のほかに説明の付けようがなかったので、結局、藤六の死因は何かの中毒だろうという事になって片付いた。
なおその騒ぎの最中に、帳場の掛硯《かけすずり》の曳出《ひきだ》しからボロボロになって出て来た藤六の戸籍謄本によって、藤六が元来四国の生れという事……それにつれて、藤六は、その近まわりに一人も身よりタヨリの無い男という事がわかったので、葬式は自然近所|葬《ともらい》といった形になった。すると又それを聞いた直方《のうがた》の顔役が十円札を一枚投出してくれたので、それを便りに赤の他人が十人ばかり寄合って、今夜は通夜をしようという事になったが、もちろん念仏なんかはホンの型ばかり。仏が売り残した煮物類と酒樽の酒を相手に、いい加減酒の座が騒がしくなった日暮れ方のこと、真黒に日に焼けた行商人|体《てい》の若い男が、ノッソリと店先へ這入って来て案内を乞うた。
その態度が乞食でもなく、酒買いでもないらしいので、上り口に居た若い男が取合ってみると、それは仏の甥《おい》と名乗る男で、叔父の藤六が死んだばかりと聞くと、上り框に獅噛《しが》み付いて、手も力もなくグシグシと泣出したお蔭で、一座がシンとしてしまった。皆、どう処置していいか、わからなくなったのであった。
そのうちに誰かが気を利かして警察へ知らせたらしく、暫く経つと巡査が一人来て取調べる事になった。……その様子を聞いてみると、その男の名前は銀次といって今年三十二歳であった。元来四国の者で、仏様……藤六の兄の藤十郎から十七の年に、勘当された放蕩者の一人息子で、中国筋を流れ流れて大阪へ着いた二十五の年に、初めて放蕩の夢から醒めたという。それから人足、手伝い、仲仕の類を稼いで、あらん限りの苦労をした揚句《あげく》、鉋飴《かんなあめ》売りの商売を覚えて、足高盥《あしだかだらい》を荷《かつ》ぎ荷ぎ故郷へ帰って来たが、帰って来てみると故郷は皆死絶えたり零落してしまったりしてアトカタもない。初めて今までの親不孝が身に沁みてわかった銀次は、そこでタッタ一人の叔父の藤六が、九州の直方で酒屋をやっているという話を風のタヨリに聞いたので、そのまま門司まで便船で来て、やっとここまで辿《たど》り付いたところで御座います……と云って又泣いた。
そんな話は皆、藤六の戸籍謄本とピッタリ一致した。殊に日に焼けてこそおれ若い銀次の人相から骨組が、見れば見る程死んだ藤六に似ている事がわかったので、巡査は勿論、通夜の連中もモウ銀次を疑わなかった。それどころでなく、これも仏の引合わせとか何とかいうのでスッカリ感激した一同は、直ぐに銀次を引っぱり上げて施主の席に座らせた。銀次が仏の顔を見て又もサメザメと泣いている間に、皆ヒソヒソと耳打ちし合って、いくらかのお鳥目《ちょうもく》を出し合って包んだりした。
それから間もなく、銀次が程近い町の顔役の所へ、お礼の挨拶に行って帰って来ると、通夜の席が又賑やかになった。銀次は明日《あす》から私がこの店を引継ぐように親分さんへも御挨拶して来ました。どうぞよろしく……というので巡査を上席に据えて盛んに酒を出した。そうして翌る朝になると銀次は、酔い倒れた連中を背負ってソレゾレの家《うち》へ届けたり、人足を雇って仏を焼場へ持って行ったり、なかなかコマメに立働らき初めた。それに連れて「やっぱり親身の者《もん》でないとなあ」とか「仏も仕合わせたい」とか近廻りの者が噂し初めた。
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不思議な事に、その頃から直方《のうがた》附近に、眼に立って乞食が殖《ふ》えて来た。それがアンマリ殖え過ぎて町の迷惑になる事が夥しいので、警察でも捨ておきかねて逐《お》い散らし逐い散らししたものであったが、さながらに飯の上の蠅で追っても追っても集まって来た。一方に炭坑が景気付くに連れて殺人殺傷事件がグングン殖えて来たりしたので、警察ではスッカリ持て余してしまったが、しかしその乞食連中の中で町外れの藤六酒屋の軒先に立つ者が滅多に居なくなった事には誰も気が付かなかった。藤六と違って銀次は又、特別の乞食嫌いらしく、いつも邪慳に追払っていたので、そのせいだろう位に皆考えていた。
銀次はそれから後《のち》、商売にばかり身を入れて一歩も家《うち》を出ないせいか、見る見る色が白くなって、役者のようないい男になって来た。自分では三十二と云っていたが、二十七八ぐらいにしか見えなかった。切れ上った眥《めじり》と高い鼻筋が時代めいて、どことなく苦味の利いた細長い顔が、暗い店の中からニッコリして出て来ると、男でもオヤと思う位だったので、大袈裟な意味でなしに直方中の女という女の評判になって来たものであったが、それでも銀次は固い人間と見えて、遊びに行くフリも見せなかった。どこまでもお客様大切、仏様大切といった恰好で、朝から晩まで暗い店の中で、物腰柔らかく立働らいたので、その翌る年の春頃になると、今までの店が狭くなるほど繁昌して来た。煮肴や何かも藤六と同じように朝早く自分で仕入れて来て、自分で料理するのであったが、それが仲々器用で美味《うま》いという評判であった。
ところがその春頃になると又不思議な事に、あれ程執念深く直方に集中していた乞食連中がいつの間に、どこへ消えたのか殆んど一人も居なくなっていた。程近い英彦山《ひこさん》参りや、新四国参りの巡礼以外には探しても見当らなくなってしまった。人々はこうした現象を乞食の赤潮《あかしお》といって驚いていたし、警察側でも頻《しき》りに首をひねっていたが、しかし、こうした奇現象の原因は容易に考えられなかった。
新暦の桃の節句の晩であった。
いい月夜であったが店が割合に閑散で、珍らしく客が早く引けたので、銀次はチョット表に出て前後の往来を、月の光りで遠くまで見渡してみた。それからイツモの通りに慌しく表の板戸を卸《おろ》して小潜《こくぐり》の掛金をシッカリと掛け、裏の雨戸を閉めて心張棒《しんばりぼう》を二本入れた。藤六の位牌《いはい》の前に床を展《の》べて煤《すす》けたラムプを吹き消そうとすると、トタンに表の戸をトントンとたたく女の声がした。
「すみません。あけて下さい」
銀次はチョットの間《ま》、その音を睨み付けて脅えたような顔をした。ラムプの下で屹《きっ》と身構えをしていたが、微かにチョッと舌打ちをすると寝間着の古浴衣のまま面倒臭そうに上り框を降りた。
イザといえば直ぐにも飛掛りそうな身構えで、低い、狭い潜戸《くぐりど》を開けてやると、女は直ぐに這入って来た。
十九か二十歳《はたち》ぐらいの見るからに初々《ういうい》しい銀杏髷《いちょうまげ》の小柄な女であった。所謂《いわゆる》丸ボチャの愛嬌顔で、派手な紺飛白《こんがすり》の袷《あわせ》に、花模様の赤|前垂《まえだれ》、素足に赤い鼻緒の剥《は》げ
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